型取り形成する
Molding and Shaping
November 8, 2016
引用文集
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主は、幅広い経験を通して、様々な時に、新しい方法で私たちの人生を形作られます。最善の計画は、この時に主がするように与えられたものを見て、それが間違いでも罰でもないし、ただ耐えるためだけの困難でもないと心に決めることです。あなたの態度次第で、ポジティブな経験、つまり、自分や周りの人の益となることにする機会となりえます。他の状況では同じ形で得ることのできないような人生の質や力、確信、ビジョンを得るチャンスとなるのです。
人生は、楽になればそれだけ良くなるというものではありません。フルに生きることによってより良くなるのです。そのためには、自分の人生に起こるそれぞれの出来ごとにおいて喜びを経験しようとし、状況がどんなふうに見えようと、自分の置かれたあらゆる状況から何かを得ようと努めなければなりません。そういう受け止め方をし、今はちょっと掃溜めにしか思えない状況の中で、宝を見つけるのを助けて下さるよう神に求めるならば、自分の思った以上に大いなるものを発見できることでしょう。—マリア・フォンテーン
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愛する神よ、私の不信仰をおゆるし下さい。苦しんでいる時には、あなたが気にかけて下さるのだということを忘れてしまいます。あなたがこれまで数々の試練において、助けて下さったことを忘れてしまうのです。あなたがその御腕に私を抱えて、安全に守って下さることを忘れてしまいます。私の痛みをあなたもまた感じておられるのだということを。私を愛しておられることを。あなたにとって自分が大切な存在であることを忘れてしまうのです。あなたがおられることを私に示して下さい。その包み込むような愛を感じさせて下さい。傷ついた魂をいやして下さい。私に信仰がない時にも、共にいて下さることを感謝します。—ティモシー・デーリー
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苦難を恐れてはいけません。むしろそれを歓迎しなさい。素晴らしい機織り職人であられる主が、自分の信仰を強めてますますイエス・キリストに似た者とするために、あらゆる苦難や疑問や失望や恐れを用いて下さるのだと確信しつつ、喜んでそれを受け入れるのです。—ラビ・ザカライアス
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神は必ず、あなたと共におられます! 暗闇の中に、試練や試みの只中に、共にいて下さるのです。神は混乱のさ中や、どん底にあっても共におられます。あなたを愛し、あなたのことをこの上なく大切に思っておられるからです。
何が起こっても、神に信頼しなさい! 神を叫び求めるのです! あなたの人生は形成され、壊され、形作られる過程にあります。神の人なら誰もが皆、同じ過程を通るのです。—デービッド・ブラント・バーグ
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主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう。」 わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」—エレミヤ 18:1–6
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神は間違いを犯されない
1502年にイタリアのフィレンツェで、サンタマリア教会に大きな大理石の塊が運ばれました。教会はすぐに、この巨大な石で彫像を作らせようと、専門家とおぼしきある人物を雇いました。この大仕事が始まってまもなく、その男は石の底面に穴を開けて、この見事な大理石を台無しにしてしまいました。そこで教会は、ただその上に巨大な布をかけておくことにしました。石がすっかり価値を失って修復不可能なまでに損壊した今、他にどうしようもなかったのです。すると、ミケランジェロという男が、その大きな石がどのようにしてだめにされたのかという話を耳にして興味を引かれ、実物を見に行ってこう思いました。「ああ、これは使えそうだ。」 ほどなくして、彼は彫刻作業に取り掛かり、かつては見込みがないと思われた石が、聖書の登場人物ダビデの、過去に造られた内でも最高の彫像の一つとなったのです。
今日、巨大な大理石の塊であるかのように感じている人が大勢います。壊れ傷つき、大した存在ではなく、誰かに見捨てられたと、感じているのです。けれども私たちは、全能なる神の巧みな御手の中で、美しい何かに形作っていただけるのです。
熟練した陶器師であられる神は、誰にも望まれなかったものを、美しいものに変える方法を心得ておられます。
神は陶器師、私たちは粘土です。神は羊飼い、私たちは羊です。神は主人、私たちは僕です。どんなに教養があっても、どんなに権力や影響力を持っていると思っていても、どんなに長いこと神と歩んできたとしても、あるいは神のご計画の中で、自分がどんなに重要な存在であると思っていても、それによって神が何かをされる理由や、何を、いつ、どのように、どんな方法でしようと決められるのかが、わかるわけではありません。神の御心は私たちには到底理解できないものの、それでも私たちはそのように考え、生きるよう求められているのです。
神は私たち全員のために、ご自分がしておられることをわきまえておられます。神は陶器師であり、私たちはその粘土です。神は私たちを形作り、形成されます。神の正しく、喜ばしく、まったき御心を成就するための、欠けたところのない器となることができるように。—著者不詳 [1]
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クリスチャンの人生の最も困難な部分の一つは、キリストの弟子になったからといって、人生の試練や患難を免れるわけではないという事実です。‥‥聖書は、神がご自分の子どもたちを愛しておられ、私たちのために万事を共に働いて益となるようにして下さると明言しています。[2] それはつまり、神が私たちの人生に起こることを許される試練や患難が、万事を益とするために共に働く諸要素の一部であるということです。ですから、神を信じる人々にとって、あらゆる試練や患難の背後には、神のご計画があるに違いありません。
あらゆる物事において、神が最終的に私たちに望んでおられるのは、ますます成長して、神の御子の姿に似た者となることです。[3] これはクリスチャンたる者の目標であり、試練や患難を含む人生のあらゆる事柄は、私たちがその目標を達成できるようにするためにあるのです。それは神の目的のためにこの世と分離し、神の栄光のために生きるにふさわしい者となるという、清めの行程の一部です。第1ペテロ1:6–7には、試練によっていかにそれが成し遂げられるかが書かれています。「そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」 真の信者としての信仰は、試練を通ることによって確立されます。それによって、それが現実で永遠に続くとわかって安心できるように。
試練は神の教えにそった人格を形成し、それによって私たちは「患難をも喜ぶ」ことができます。「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」[4]—gotquestions.orgより
2016年11月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。