信仰による奇跡
Miracles of Faith
October 27, 2020
引用文集
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信仰を持つという言い方は、何気なく使われていますが、それはどういう意味なのでしょうか。また、信仰をどのように用いればいいのでしょうか。
数ヶ月前にマタイ書を読んで、私の信仰観は一新されました。イエスがある父親から瀕死の娘を癒してほしいと頼まれる話、[1] 目の見えない二人の人に癒してほしいと懇願された話、[2] 娘の癒しを求めるカナン人の女との出会い[3] など、いくつかの話が私の目に力強く飛び込んできたのです。 まるで初めて読むような感覚でした。これらの物語を読んでいて、私はある共通点に気づきました。
どの話も、自分自身や自分の子供のために、イエスに癒しを求めているのです。「私たちを憐れんでください!」 と言っています。つまり、「私たちに同情してください。あなたは癒せるのですから、癒してください」と。しかし、それぞれの場面でイエスは、癒せるから癒やしたのではなく、主は癒せると彼らが信じたから癒したのだと言われ、それは彼ら次第であるとしています。
私は特に目の見えない人の話が好きです。この物語では、彼らはずっと「憐れんでください、憐れんでください」と叫んでいます。イエスは彼らに話しかけて何と言われたでしょうか。「わたしにそれができると信じるか」[4] と言われたのです。イエスは彼らを哀れに思って癒すことを望んでおられなかったようです。彼らには信仰があったので癒したかったし、それを彼らに知ってもらいたかったのです。主がそれを気づかせるための質問をしたとき、彼らはその意味を理解しました。そうです、彼らは主にはできると信じたのです。そして、彼らが信じたからこそ、主は癒しを行われました。そのように単純なことです。
それで、私はカナン人の女性の話を違った角度から見るようになりました。イエスは、癒しを求める彼女に対して、自分はイスラエルの失われた子供たちのために使わされたのだから、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」、[5] 彼女は主人の食卓で食べるにはふさわしくないと言われたのです。けれども、これを読んで、私は、主は彼女に恥を書かせようとしたのだろうか、いや、むしろ信仰を証明する機会を与え、その決定的な瞬間に信仰を持つことによって、大きな報酬を得る機会を与えたのだろうか、と思いました。
主は彼女の要求にすぐに答えることはせず、願いをかなえる前に、まず彼女が執拗に求めて、神を信じていることを証明するようにさせました。その後、主は彼女に「あなたの信仰は見あげたものである」[6] と言われました。 そして、その瞬間、彼女の娘は癒されたのです。
マタイ17章の別の話では、癒しの試みに失敗した弟子たちをイエスが助け、なぜ彼らには奇跡を起こせなかったのかを説明なさいます。主は言われました。「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」[7]
イエスが物事をとてもシンプルにしているところが、私は好きです。それはただ信仰の問題でした。神が少年を癒せると信じていただけでなく、もっと大切なことに、彼らが祈れば神がそれを聞き、その祈りに答えてくださると信じていたかどうかなのです。彼らはイエスにはそれができると知っていましたが、自分たちもそれができると知っていたでしょうか。
主はまた、大きさの対比をしておられます。一粒のからし種のような小さな信仰が、巨大な奇跡を起こすのに十分な力を持っているというのです。考えてもみてください。
イエスはこうも言われました。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように。」[8] つまり、「そのための信仰があるなら、それを得ることができる」ということです。かなりすごい約束ですね。
このように信仰について話すと、信仰が、「結局、それは何なの?」 というような漠然としたものに思えてしまうかもしれません。ここに、私にとって役に立った信仰の簡単な定義を教えましょう。信仰とは、神が御心に従って行動することができ、またそうされると知ること、なのです。
マタイ書にあるこれらの話を読んだ後、私は立ち止まって、自分が祈っていたことの中で、答えを本当に信じていない祈りはないだろうかと自問自答しました。私は神にとって与えるのが可能なもの以下を期待していたのでしょうか。私の小さな信仰のせいで、神を小さな活動範囲に閉じ込めていたのでしょうか。—ジョイキー・ウォルターズ
奇跡を信じる信仰
空に星を散りばめるには奇跡が必要だった。
宇宙にこの世界を吊るすには奇跡が必要だった。
そして、神が私の魂を救い
清め、健やかにしてくださった時には、
愛と恵みの奇跡が必要だった。
—ジョン・W・ピーターソン
聖書には奇跡の出来事についてたくさん書かれているのに、どうして奇跡を信じられないのか、私には理解できません。もちろん、聖書に書かれている奇跡は実際に起こったことがないとか、科学で説明できるとか、あるいは起こったとしても現代ではありえないと主張する知識人に出会うこともあるでしょう。しかし、そういった奇跡は、聖書に書かれているとおりに起こったのであり、どの場合も神の力と誰かの信仰という二つの要素が必要だったのです。神の力は今も変わっていないので、今日も奇跡を期待することができるのです。
聖書への信仰は、奇跡への信仰を生み出します。聖書は、超自然的な神のわざを明らかにするだけでなく、心を開いて読む人に信仰を与えてくれます。[9] 聖書は私たちの人生に奇跡的な変化をもたらし、それが他の奇跡に対する信仰を与えてくれるのです。神とその御子イエス・キリストへの信仰、聖書の中のキリストへの信仰は、私たちの日常生活における信仰を生み出します。なぜなら、真の信仰は、変わることのないキリストとその力を信じているからです。
イエスは十字架にかけられる直前、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」[10] と約束されました。そして、復活の後、イエスは弟子たちの前に現れて、「信じる者には、このようなしるし(奇跡)が伴う」と言われ、実際に奇跡が伴ったのでした。[11]
まもなく、人々は初期のクリスチャンについて、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます」[12] と言うようになりました。この最初の信者たちや、それからまもなく信者になった人たちは、神の超自然的な力を自由に使えると確信していたので、あえて強大なローマ帝国に挑戦し、その根底から揺さぶりをかけたのでした。
もしイエスが「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」[13] なら、イエスが祈りに答えて今日も同じような奇跡を起こすことができると信じることが、なぜそんなに難しいのでしょうか。真の信仰があるところには、必ず奇跡があります。あなたが主の御言葉に生き、主の約束を掘り出してその上に信仰を築き、不可能に思える時でさえ主が約束を守ってくださると信じるなら、あなたは神が超自然的な領域で働いてくださるのを見ることができます。
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」[14]
私は長年、何か切実な必要性が生じたときには、神が奇跡を起こしてくださると信じることを習慣にしてきました。常に祈った通りの奇跡が起こるわけではありませんが、神が私をずっと待たせ続けたり、ノーと言ったりするときよりも、祈りの答えを送ってくださったときの方がずっと多かったのです。
あなたへの主の憐れみと愛、困ったときに喜んで助けに来てくださること、忠実に約束を守ってくださることは、今日も変わりません。主は信仰を見てあなたの必要を満たすことを切望しておられます。
今度、解決不可能な状況や必要に直面したら、この約束を完全に信頼して、それが果たされるよう求めてください。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」[15] 主の力は今日も変わらず、神は今も王座におられ、祈りは物事を変えます!—バージニア・ブラント・バーグ
2020年10月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
1 マタイ 9:18, 23–25.
2 マタイ 9:27–30.
3 マタイ 15:22–28.
4 マタイ 9:28.
5 マタイ 15:26.
6 マタイ 15:28.
7 マタイ 17:20.
8 マタイ 9:29.
9 ローマ 10:17.
10 ヨハネ 14:12.
11 マルコ 16:17–18, 20.
12 使徒 17:6.
13 ヘブル 13:8.
14 マルコ 10:27.
15 ローマ 8:32.