苦しみの意味を理解する
Making Sense of Suffering
March 26, 2019
引用文集
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苦しみについて、直観とは相容れない真実の一つとは、それがクリスチャンをさらなる栄光に備えるということです。パウロは2コリント4:17–18で次のように書いています。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」
これらの節は、苦しみについての現代的な感情を削る紙やすりのようです。私たちはおのずと、なんとしても苦しみを避けようとします。しかし、神は私たちの永遠の喜びのために、そう、さらには栄光のためにさえ、私たちの人生に苦しみをもたらすのです。—ジョセフ・シューマン
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人生を振り返ってみると、私が最も感謝しているのは、シンプルで明るい日々ではありません。私が最も感謝しているのは、信仰のために戦わなければならなかった日々なのです。絶望と痛みのうちに神に呼ばわった日々。かろうじて生き延び、苦労して切り抜けた日々。結局のところ、人生に価値があるのだろうかと思った日々。私をひざまずかせ、祈りに駆り立てた日々。そういった日々が私の人格を形成し、信頼を強め、イエスを見ることのできるようにしてくれたのです。
私にとって、それらの日々への感謝の気持ちが湧くのは、しばしば昔を回想しているときです。振り返ってみると、神が私の試練を通して何を成し遂げたられたかを喜ぶことができます。痛みがなくなり、実だけが残るとき、自分の苦しみの価値が見えてくるのです。…
私は生きている聖人と他界した聖人の両方から、私の深い苦しみを神に感謝すべきことを学びました。目が見えないこと、獄中、四肢の麻痺について神に感謝した信者たち。これらのキリスト信者は、ほとんどの人が耐え難いと考える想像もつかない苦しみを、神の贈り物として見ています。
贈り物は黒い紙に包まれていますが、それでも贈り物に変わりはありません。—ヴァニーサ・レンダル・リスナー [1]
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パウロ以上に、主イエスのために苦しみにあっている時の忍耐についての助言ができる人がいるでしょうか。パウロは投獄され、むち打たれ、石を投げられ、船は難破し、空腹で、寒さに凍え、衣食にも事欠いたことがありました。[2] これらすべて、またそれ以上のことがあったけれど、パウロは苦しみに耐え、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通しました。[3]
困難はさまざまな方法でやってきます。誘惑、病気、失業、人間関係の破綻、信仰に対する迫害は、すべて困難の形です。困難が来るとき、クリスチャンはそれを驚くべきではありません。イエスは私たちに「あなたがたは、この世ではなやみ(苦難)がある」[4] と警告なさいました。しかし、良い知らせがあります。それは、イエスがこの警告を、励ましの言葉でフォローしてくださったことです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」 私たちは主の恵みによって耐えることができるのです。…
苦しみに対するパウロの反応とは、状況の重さに屈するのではなく、キリストがご自身の教会に、苦難に耐えるよう命じられたことに気づくというものでした。[5] …パウロは、むち打され、鎖につながれ、空腹になるたびごとに、ますます自分の肉体のうちにキリストを重ねました。パウロは喜ぶことができました。教会のために肉に苦しむことは、キリストの苦しみにあずかるという特権だからです。[6]
クリスチャンとして、私たちは苦しみの時に神の方を向き、神に頼らなければなりません。そうすれば、神は私たちがあらゆる試練を忍び、あらゆる誘惑を克服するのを忠実に助けてくださいます。[7] 私たちは、苦しみが忍耐や敬神的な性格や、明るい希望といった美徳を生み出すことを知っています。ですから、パウロが試練の期間に持っていたのと同じ喜びを持つことを学べるのです。[8]
「耐える」というのは、単ににっこり笑って我慢するという意味ではありません。クリスチャンは、悲しみ、裏切られ、怒りさえ感じることもあるでしょう。これらの感情自体は悪くありません。罪となるのは、それが私たちの人生に根を下ろして、苦い根、復讐という悪い考え、また許さない気持ちになるのを許した時だけです。信者は、私たちの人生に起こることはすべて、神を愛し、神のご計画に従って召された者たちのために、万事を共に働かせて益とすると約束なさった、王である神の支配下にあることを覚えておかなければなりません。[9]
イエスは苦難に耐えた人の究極の手本です。[10]…苦しみがいかに大きくとも、たとえそれが十字架でも、イエスは背を向けることがありませんでした。[11] ヘブル12:2には、イエスが十字架を「自分の前におかれている喜びのゆえに」耐え忍んだと書かれています。キリストは十字架がもたらす苦しみをご存知でした。その喜びを待ち望んでいたゆえに、主は前進し続けることができたのです。主はどんな報酬があるかをご存知でした。それは人類の贖いと、神の右の座です。それと同様に、クリスチャンは、神が約束してくださった報いを考えるとき、耐え忍ぶための希望を見出すことができます。「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。」[12]—gotquestions.orgより [13]
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キリスト教は、運命論に対して、苦しみは抗しがたいものであると教え、仏教に対して、苦しみは現実のものであると教え、カルマに対して、苦しみはしばしば不公平なものであると教えています。しかし世俗主義に対して、苦しみは意味あるものだと教えています。苦しみには目的があり、もし正しく向き合うなら、それは私たちを神の愛へと、また、想像以上の安定と霊的力へと、まるで釘のように深く打ち込むことができるのです。…
イエスは私たちが栄光に包まれるようにと、ご自身はすべての栄光を失われました。また、私たちが中に入ることのできるようにと、ご自身は外に締め出されました。主は私たちが自由になれるようにと、縛られ、釘付けにされました。主は私たちが近づくことができるようにと、追い出されました。 そして、主はあなたを心底滅ぼすことのできる唯一の苦しみを取り除いてくださいました。それは神から見捨てられるという苦しみです。イエスは、あなたの人生にもたらされるすべての苦しみによってあなたがただ優れたものになれるようにと、その苦しみを甘受されました。圧力のかかった石炭の塊はダイヤモンドになります。そして、キリストにある人の苦しみは、その人をただ素晴らしい人に変えるのみなのです。—ティモシー・ケラー [14]
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優しさを生み出すには、苦しみがなければなりません。炎の美しさをもたらすには、灰がなければなりません。何かが灰にならないと!
祝福は苦しみから生まれます。ヘブル12章でしっかりと裏付けられているように、灰から生まれる美しさです。11節にはこうあります。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 」
主よ、あなたに押しつぶされ、傷つけられ、打たれることに抵抗しないよう助けてください。それによって水が湧き出るのですから。たとえ悲しい歌だとしても、私たちがその美しい歌を消すことがありませんように。悲しみがあろうとも、あなたに感謝するのを助けてください。私たちがあなたの甘美さ、あなたの芳香、あなたの美しさ、あなたの歌、あなたのさわやかな水を与えることのできるように、私たちが打たれ、押しつぶされ、圧迫され、傷つけられ、苦しむことを厭わないよう、助けてください。
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」[15]—デービッド・ブラント・バーグ
2019年3月アンカーに掲載 朗読:ジェイソン・ローレンス
音楽:マイケル・ドーリー
1 Vaneetha Rendall Risner, The Scars that Have Shaped Me (Desiring God, 2017).
2 2 コリント 11:23–28.
3 2 テモテ 4:7.
4 ヨハネ 16:33.
5 ヨハネ 16:33; ルカ 14:27.
6 ピリピ 3:10.
7 1 コリント 10:13.
8 ローマ 5:3–5.
9 ローマ 8:28.
10 ヘブル 12:2.
11 ヘブル 12:2–4.
12 ヘブル 10:35–37.
14 Timothy Keller, Walking with God through Pain and Suffering (Hodder & Stoughton, 2013).
15 2 コリント 1:4.