イエスのように愛する
Loving Like Jesus
August 6, 2019
引用文集
オーディオ・ダウンロード(英語) (12.6MB)
キリストがいかに私たちを愛されたか、よく見てください。主は控えめではなく、ふんだんに愛されました。私たちから何かを得るためではなく、ご自身のすべてを私たちに与えるために、愛されたのです。あなたもそのように愛しなさい。—エペソ 5:2 [1]
*
私はずっと長いこと、理想的な愛の模範が一体どうやって私の不完全な人生の一部になりうるのかを知ろうと、探求してきました。そして、これが私の学んだことです。イエスのように愛することは、私たちが想像するよりももっと手に入れやすいものなのです。イエスの教えと手本は、主の愛の、少なくとも5つの独特かつ実際的な性質になって表れています。
あなたもイエスのように愛したいなら、以下のようにならなければなりません。
- 自分を周囲から切り離さず、もっと気を配る
- 排他的にならず、もっと親しみやすくなる
- 批判的にならず、もっと優しくなる
- 臆病にならず、もっと大胆になる
- 自分のことに没頭せず、もっと自分を与える
これはイエスがどのように愛したかを徹底的に網羅したリストでしょうか。もちろん違います。これは天国的な愛の理想を地上のレベルで扱うための、一つの方法なのです。…
私はイエスのような愛し方がもっと上手くなることについて、楽観的に考えています。なぜかというと、この愛は見せかけではないからです。これは実現不可能なものではありません。手に届かないものでもなければ、聖人レベルに押しやられたものでもありません。それは実在します。イエスは私たちに、並外れた方法で愛するための、実際的なステップを与えてくださいました。イエスは私たちに、これらの5つの資質を具現化するよう呼びかけておられます。それらは難しいことでしょうか。確かにそうです。しかし、乗り越えられないものでもありません。実行しようとしても、失敗することはあるでしょうか。当然あります。しかし、落胆してはいけません。私たちは、試みが失敗することで、もっとも優れた方法でより上手く旅することを学ぶからです。—レス・パロット [2]
*
愛は小川のようです。ある日は水量が豊かで、水はほとばしるように流れます。またある日は水がちょろちょろと流れ、見えない岩にぶつかって跳ね返るのが見えます。けれども、たとえ愛が干からびて流れが止まり、泥となった川底の上に水がほとんどなくなっても、愛はもっと流れてきます。
私たちは、イエスがいかにして愛し、ゆるされたか、気にかけておられることを示されたかを覚えています。イエスを愛の水源として用いることで、私たちは水流を再び満たすことができます。人生には、イエス・キリストに見出されるさらなる次元があります。イエスこそ愛の権威です。イエスは、愛することが難しいときにも愛されます。愛が拒まれたときにも愛されます。愛がほとんど意味をなさないときにも愛されます。イエスは、他の人なら諦めそうなときにも愛されます。他の人が醜い言動をするときにも愛されます。他の人が冷たいときにも愛されます。他の人が愛にふさわしくない態度のときにも愛されます。
そして、私たちはその愛が枯渇したと感じるときに、イエスに手を伸ばして、もう一度愛することを学ぶのです。—著者不明
*
ビジネスマンの一行が飛行機に遅れそうになり、空港の中を急いで移動していると、待合室にいる乗客にリンゴを売っている目の見えない少女にぶつかりました。彼らはぎりぎり搭乗ゲートに間に合い、飛行機のドアに向かったのですが、その中の一人がクリスチャンで、あの目の見えない少女にすまないことをしてしまったとひどく後悔しました。
彼は同行の友人らに、先に行ってくれ、自分は次のフライトで行く、戻ってあの女の子の様子を見てくるから、と告げました。彼らは反対しましたが、そのクリスチャンは友人らの利己的さに憤慨し、せめて少女に助けを申し出ることもせずに出発することなど考えられませんでした。
ターミナルに戻ると、少女が一生懸命リンゴを拾おうとしていました。クリスチャンであるその若いビジネスマンは、膝をついて、その少女に謝り、リンゴを拾ってあげるから、と告げました。
リンゴを全部拾い終えると、彼は財布を出して、傷のついてしまったリンゴ数個分のお金を払いました。少女に謝ってその場を去ろうとすると、少女は彼に尋ねました。「すみません、あなたはイエス様ですか?」 彼はその言葉を一生忘れないでしょう。—ジム・フライヤーが聞いた話を語る
*
ヨハネ13:34で、イエスはこう教えておられます。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 それからこうも言われました。「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」[3] そのためにはどうすればいいのでしょう。互いに愛し合うというのはどういう意味なのでしょう。
上記の節にある「互いに」という言葉は、信者仲間を指します。キリストの信者であることの際立った特徴とは、キリストにある兄弟姉妹への、深く、誠実な愛です。使徒ヨハネは他の聖句でもこの事実を私たちに思い起こさせています。「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。」[4]
この戒めを与えたことで、イエスはこの世界がかつて見たことのない何かをなさったのです。イエスは、愛を特徴とする集団をつくられたのでした。世界には数多くの集団があり、それぞれ肌の色、制服、共通の興味、出身校など、その特徴は様々です。タトゥーやピアスをしている集団もあれば、肉を食べない集団もあります。また、トルコ帽をかぶる集団もいます。それぞれの集団が自分たちの特徴とするものは無数にあります。しかし、教会は独特です。歴史上初めて、そして唯一、イエスは愛によって見分けられる集団をつくられました。肌の色は関係ありません。母国語も関係ありません。食生活や制服やおかしな帽子をかぶるかどうかについてのルールはありません。キリストの信者は互いへの愛によって見分けられるのです。
初代教会は、イエスが語っておられた類の愛を行動で表しました。エルサレムには当時知られていた世界のあらゆるところから人々が来ていました。[5] 救われた人は共に集い、すぐに互いの必要を満たし始めました。「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。」[6] これが行動となって現れた愛であって、間違いなく、その市にいた人たちに感銘を与えたことでしょう。
ヨハネ13:34–35 にあるイエスの言明は、他にもいくつかの疑問を生じさせているので、それに答えるのはいいかもしれません。まず、イエスはどのように愛されるのでしょう。イエスは無条件に、[7] 犠牲的に、[8] ゆるしに満ち、[9] 永遠に[10] 愛しておられます。同時に、イエスの愛は聖なる愛であり、超越的な道徳的純粋さによって特徴付けられています。なぜなら、イエスは聖なる方だからです。[11] キリストの驚くべき愛が頂点に達したのが、十字架上での死であり、埋葬であり、また体のよみがえりでした。[12] 信者たちはそのように互いに愛し合うべきなのです。
二番目に、それならばキリストの信者たちはいかにしてキリストが愛されたように愛せるのでしょうか。キリストの信者たちの内には聖霊が宿っています。[13] 御霊に従うことにより、神の言葉を通して、信者たちはキリストのように愛することができます。キリストはその無条件で、犠牲的で、ゆるす愛を仲間の信者たちに示されますが、それで終わりというわけではありません。キリストの愛は、友人や家族や仕事仲間にも示されます。[14] 敵対者たちにでさえ、キリストの愛は与えられます。[15]
信者を通して行動に表されるキリストの愛は、利己的で、傲慢で、ゆるすことをせず、不誠実な、「肉」によって生じる愛とは違います。第1コリント13:4–8 には、御霊のうちに歩む信者たちの間で、また彼らを通して、キリストの愛がどのようにあらわれるかについて、見事な描写があります。
人々は生来、第1コリント13章にあるような愛で愛することはありません。そのように愛するには、心が変わらなければならないのです。人は、自分は神のみ前に罪人であり、ゆるしを与えるためにキリストが十字架で死に、よみがえられたことに気づかなければなりません。次に、キリストを個人的な救い主として受け入れると決心しなければならないのです。その時点で、その人はキリストによってゆるされ、永遠の命という神の贈り物を受け取ります。さらに、その人は神の性質にあずかる者となるのです。[16] その人は、キリストにあって、自分が神から真に愛されていることを知っています。信者が受け取る新しい人生には、キリストが愛されたように愛するための新たな能力の含まれます。なぜなら、今、信者の内には、無条件で、犠牲的で、ゆるしに満ち、永遠で、聖なる神の愛が宿っているからです。[17]
互いに愛し合うというのは、キリストが私たちを愛されるように、信者仲間を愛するということです。聖霊の力を持ってキリストのように愛する人たちは、彼らがイエス・キリストの弟子であること、あるいはキリストに学ぶ者であることを証明するのです。—gotquestions.orgより [18]
*
あなたはわたしを失望させたことがあるか? 期待に及ばなかったことはあるか? 失敗したことはあるか? そうだ、ある。しかし、同時に、その失敗を通して成長し、倒れたら起き上がることを学び、また、わたしを失望させ、落胆させた時を通して、もっとわたしを愛するようになったのではないか? もしそうであるなら、わたしから見てあなたは成功者であり、今後もさらに多くの成功が待ち受けている。
わたしがあなたを元気づけたように、他の人を元気づけなさい。わたしがいつもあなたをゆるしてきたように、他の人たちをゆるしなさい。わたしがあなたの意欲を駆り立てたように、他の人たちに、頑張れと駆り立てなさい。わたしがあなたを励ましたように他の人たちを励ましなさい。わたしが与えた霊感で他の人たちを霊感しなさい。わたしから受けた慰めで他の人たちを慰めなさい。わたしがあなたを信じたように、あなたも他の人たちを信じなさい。わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
強いと感じないときでも、信仰によって強くなれることを、愛する人たちに思い起こさせなさい。たとえ疲れ果てても、彼らはわたしの助けによってやり遂げることができる。すでに負けたと思うときでも、克服することができる。失敗したときでも、もう一度トライすることができる。心が折れているときでも、愛することができる。たとえ涙を通してあっても、微笑むこと、さらには笑うことでさえできる。勝ち目がないときでさえ、やり抜くことができる。わたしがあなたを信じているように、あなたも彼らを信じていることを知らせてあげなさい。—イエス、預言で語る
2019年8月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ
音楽:マイケル・ドーリー