さらに多くが見える愛
Love That Sees More
June 20, 2022
マリア・フォンテーン
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ここしばらくずっと、愛する友人の一人を励まそうとしています。その人はいつも劣等感を抱いているのですが、実際には素晴らしい賜物や才能を、幾つも持っているのです。一例を挙げると、私は彼女がとびきりの料理上手であることを、実際に食べさせてもらった経験から知っています。
彼女はついにそれを認めて、「ええ、それはそうですね」と言いました。彼女は抜群に料理が上手だし、何年もの間大勢の人々から、そう言われてきたのです。彼女が一つの資質を前向きな姿勢で認めてくれたことは良い手始めであり、これを足がかりとして、他の長所にも気づくよう助けられるのではないかと感じました。そして、こんな手紙を書いたのです。
あなたのもう一つの素晴らしい賜物を、どうか軽んじないで下さい。何のことを話しているか、わかっていると思います。でも、もしかすると、神が与えられ、あなたが長年磨きをかけて鍛錬してきた、この別の賜物の価値に、あまり気づいていないのかもしれません。神は私にも、同じ賜物を与えられており、私はそれがこの上なく貴重であると感じています。それは励ましの賜物です。一人の人間が、他の人の人生に大きな影響を与えられる方法が一つあるとすれば、それは彼らに励ましを与える存在となることです。そのことを考えてみてください。
絶えず励ましていることはできないかもしれませんが、できる限りそうするなら、他の人々を助けることができるのです。人々に必要なものが一つあるとすれば、それは励ましです。ちょっとした何げない言葉であっても、また、それがまったく知らない人からであっても、そのおかげで人生が変わり、より幸せで希望に満ちた日々を歩むようになったという例が、無数にあります。
私も、ちょっとした励ましに思われたものが、誰かの人生を変えたという例をいくつも聞いたことがあります! 励ましの言葉のおかげで、どれほど大勢が救われ、さらにどれほど大勢が、神に与えられた潜在能力を最大限に発揮できる、より良い軌道に乗せられたかを、私たちは天国に行くまで知ることがないでしょう。自分が人生において、世界に何らかの影響をもたらせると信じてくれる人が、たった一人でもいるという事実によって、その人たちは大いに助けられたのです!
彼らに気づき、彼らの得意とする何かに気づいた人が、たった一人しかいなかったとしても、それがきっかけとなって、彼らは頑張りたいという内なる願いを抱くようになりました。自分でもまったく気づかなかった、ある並外れた素質について告げてくれる人が、たった一人しかいなかったとしても、それがまだ蕾であった才能を伸ばし発揮するための、探求と成長の旅の出発点となったのです。人生は変わり得ます。誰かが何らかの潜在能力に気づいて、それを言葉で伝えるために時間を割いたという、ただそれだけのことで。
愛する人、神はあなたにとても貴重な賜物を与えておられ、あなたが他の人々を励ますためにそれを用いる時、とてもお喜びになります。それはあなたが長年の間培い、神の栄光のために用いてきた資質です。この賜物はあなたの愛の表れであり、あなたを通して輝き出る神の愛の表れなのです。人々が自分の人生に何一つ良いものを見つけられない時、その愛は彼らを落胆から引き上げるために手を伸ばすよう、あなたを促します。人々を元気づける、そのようにポジティブな言葉をあなたが口にする時、あなたは彼らに神の言葉を語り、彼らへの神の愛となっているのです。それは彼らを神により近づけます。それ以上に大切なことが、他にあるでしょうか?
人々は、人前で雄弁に語る優れた演説家、あるいは才能ある音楽家や画家、偉大な科学者や発明家、素晴らしい俳優や歌手などを見て、それはうらやむべき賜物や才能であると考えます。そしてもちろんこれらは実際に、正しい方法で用いられるなら、尊く良い賜物です。
けれども、他に大したことはできないと感じていても、主の促しに従って隣りにいる人を励ます人は、神の目には、なされる内で最も偉大な物事の一つを成し遂げています。年配の友人をレストランや教会に連れて行ってあげたり、これまで長年助けてきた大勢の人々の一人に、何か良いことをしてあげる時、あなたは共感の賜物を身をもって示しており、それによって、必要を抱えた人々に、神の愛を目に見える形で表しているのです。
慰めや励ましが必要な誰かのために、賛美歌集を作ってあげる時、あなたは神の羊を養っています。散歩に出て、空腹な、あるいは困窮している人々に出会い、彼らにお金や食べ物を与え、彼らが孤独であると知っているがゆえに陽気な短い会話を交わす時、あなたはイエスが気にかけておられることを、彼らに示しているのです。
あなたが立ち止まって他の人々に与えるために時間を割く時、それはすべて、主があなたに与えられた美しい励ましの賜物によるものです。それはあなたが人生において、長年懸命に培い、鍛錬してきた賜物です。それはあなた自身の人生にも、神からの祝福や「よくやった」という賛辞をもたらします。
あなたがケーキを焼いて飾りつけ、孤独で忘れ去られていると感じている誰かにプレゼントする時、これこそが愛、神の愛です! それは想像もつかないほど大きな影響をもたらします。あなたが友達と一緒になって、書かれている言葉が誰にも読めないほど使い古されたサインボードを持っていたホームレス男性のために、新しいサインボードを作ってあげた時、それは愛でした。
なぜわかるのか、ですって? これは私だけの考えではありません。イエスご自身が、マタイ25:35–40で、思いやることの尊さについて、次のように宣言しているのです。
「『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。』 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。』 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。』」
あなたが長年の間、これらすべてのことを何度も繰り返ししてきたことを、私は知っています。ここに挙げた神の御言葉は、あなたに当てはまるのです。私も自分が多くの才能に恵まれているようには感じませんが、神は私の励ましの賜物が、伸ばし育てるべき最も大切な賜物であると、何度も示されました。これは私の仕事であり、召しです。励ましが個人に与えられようと大勢に与えられようと、また口頭で与えられようと手紙で与えられようと、相手がイエスを知らない人であろうと、神にあって私たちの兄弟姉妹であろうと、これは人々をイエスに近づけ、彼らが神の愛にもっと信仰を持てるよう助ける行為の一つなのです。
聖書にはこうあります。「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。」1 励ましという形で愛を与えるという、この重要なことをするために、影響力や教養は必要ありません。感謝の言葉を通して弱っている人々を力づけるために、この世の物事に長けていなくても、別に構わないのです。進み続けるよう励ますことによって、誰かのうなだれた両手を引き上げるため、あるいは恐れに震える弱々しい膝を強めるために、他の人の目に偉大に映る必要はありません。落胆している人に希望を与えるため、あるいはうみ疲れた人に進み続けるよう励ますために、頭脳明晰である必要はありません。
あなたは他の人を元気づけるというその才能を、忠実に養い育てたのであり、それは素晴らしく、実に輝かしい才能です!
追伸: 私は次の引用句が気に入っています。「励ましは感情の燃料であり、人々が、それまで可能であるとは思わなかったほど、さらに長く耐え忍び、さらに遠くへと手を伸ばし、さらに深く掘り進めることを可能にしてくれる。」
* * *
それで思い出したのですが、以前、自分が接する相手の潜在能力を見いだし、それを認識することについて、ある話を聞いたことがあります。
教師の人生を困難なものにする、数人の問題児を抱えているクラスは数多くありますが、とりわけあるクラスは、ほとんど全員が問題児であるように思われました。たったの数ヶ月間で、彼らの担任は次々と変わり、その誰一人として、もはや一つの文化となっていたある風潮を、打破することができませんでした。それは、誰であれ教室にやって来た人物を、どれだけ早く意気消沈させ、追い出すことができるか見てみよう、というものです。
教員たちはこのクラスを不良の集まりであると見なし、生徒たち自身を含めて、事実上誰一人、彼らが将来、厄介者以外の何者かになる望みがあるとは思っていませんでした。ある日彼らが、想像もしなかったような形で、互角に渡り合える相手と出会うまでは。
この女性は、特別の人には見えませんでした。柔和で穏やかで、可憐で…ごく普通の人だったのです。彼女が担任としてやって来た初日から、そのクラスの生徒たちは彼女が泣きながら教室を走り出るまでに何日かかるか、賭をしていました。教科書の陰で忍び笑いをしながら、彼女の人生を惨めなものにする方法をあれこれ考えていた時、彼らはこの「ちょろい相手」が、長くてひと月ももたないだろうと確信していたのです。中には一週間で追い出せると考えていた生徒もいました。
ところが、彼らがひっきりなしに彼女を困らせようとしたにもかかわらず、その教師は最初の一ヶ月が過ぎた後も、まだそこに留まっていました。どんなに忍耐を試されても、いたずらを仕掛けられても、彼女を疲れ果てさせようと、生徒たちが思いつく限りの他のどんなことをしても、彼女はそれに対して怒ることがなかったのです。ただ、理に適った基準を超えたどんなことも、頑として容赦せず、穏やかに冷静に、かつ生徒の一人一人への心からの気遣いを持って、事態に対処していました。愚かな振る舞いを受け流し、全員を敬意を込めて扱っているようであり、彼らがそれに値することをほぼしていないことを考えると、それは驚くべきことでした。
ある日彼女は、生徒を一人ずつ前に呼び出し、各自の名前の入った封筒を手渡しました。何らかの仕返しをされるのではないかと予想しながら、生徒たちが席に戻る間、教室に不穏な空気が漂いました。ところが封筒を開けてみると、驚いたことに全員が、それまで一度も見たことがないものを目の当たりにしたのです。それはある種の通知表でしたが、彼らの悪い振る舞いについての通知表ではありません。そのようなことにはひと言も触れていませんでした。そうではなく、この教師は彼らを一ヶ月間観察し、一人一人の長所や、潜在的な資質を見ていたのです。
彼女は見事に、一人一人の生徒の良いところを見つけ出しました。時間を守るとか、仲間の生徒に親切であるとか、リーダーの素質があるとか、アイデアや創造性に富んでいる、等々。たとえそれらが、その当時は誤った方向に用いられていたとしても、です。どんな資質であれ、大きかろうと小さかろうと、彼女にはそれが見えていたのです。
生徒たちはあっけにとられ、しんと静まりかえりました。これまでずっと、自分たちがどんなに悪い子であるかを思い知らせてやろうと躍起になっていたというのに、彼女はその真っ只中で、どうやってそんなにも沢山の良い資質を見つけることができたのでしょう? 生徒たちはきまり悪く感じたものの、同時にその顔には、かすかな微笑みが浮かんでいました。
そして驚くべきことに、それは一回限りの出来事ではありませんでした! 次の月末にはまた同じものをもらい、その「通知表」には、さらに多くの良い資質が追加されていました。何人かの生徒はこの教師のことを、結局のところそんなに悪くないと考えました。彼女が自分たちの中に、自分でも見えなかった資質を見てくれているという事実が、気に入り始めたのです。もう少し頑張れば、次の月にもらう通知表に何かを書いてもらえるかもしれないと考えて、やる気を出す生徒もいました。
来る月も来る月も、この教師は励ましや称賛の言葉を書き続けました。生徒たちの中には、何かの分野でより懸命に努力した者もいれば、それほど頻繁に悪い振る舞いをしなくなった者もいましたが、自分たちが必然的に、皆から見下される運命にあるわけではないという考えに向けて、優しく後押ししてくれる何かが、常にありました。彼女が彼らの、評価されるべきさらに多くの資質を探し続ける間、彼らは彼女に書いてもらえるよう、もっと多くの題材を提供しようと、努力し続けました。それには時間がかかりましたが、彼女は彼らを少しずつ励まして、自分たちでも見ることを予想していなかったような、内に秘めた能力を見ることができるようにしたのです。
必ず陥るであろうと言われていた下落人生から逃れられるかもしれないと気づいた生徒たちは、奮起して頑張り始めました。自分たちの能力に深い疑念を抱いていた人々を、見返してやりたいという理由からだけだったにせよ、とにかく学びたいと思うようになったのです。
この教師は意気をくじかれて追い出されるどころか、徐々に彼らの人生を安定させる錨となり、彼らが困難に直面した時に、励ましを求めて頼る相手となりました。彼らはようやく、良いものや前向きなものに思いを向けるようになり、自分たちが今日やったどんなことを、明日もっとうまくやれるかを考え出そうとしました。
他の教員たちはその変化に大きな衝撃を受け、彼女は生徒たちが高校を卒業するまで、担任を務めてほしいと頼まれました。大学に行った生徒もいれば、他の方法で夢を追い求めた生徒もいましたが、自分たちの人生と心を変え、自分に対する見方を変え、陥りかけていた自滅的な負の連鎖の人生から救ってくれたこの教師を、全員が心から慕っていました。
長所や潜在的な資質を見、それらを認識するために余分に時間を割き、努力を払い、気遣うこと。ただそれだけでよかったのです。これは、親切な行為や思いやりや敬意や励ましが、人生や状況を変えたという、数え切れないほどある実例の一つに過ぎません。
初版は2019年11月 2022年6月に改訂・再版
朗読:デブラ・リー
1 1 コリント 1:26.