愛は多くの罪を覆う
Love Covers a Multitude of Sins
March 10, 2020
引用文集
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ことの大小にかかわらず、誰かに不当に扱われたと認識する時、私たちの感情は傷つきがちです。気を害するだけの理由があるのかどうかにかかわらず、それで腹を立てるなら人間関係は損なわれます。それはまるで、相手との関係の中に死角を設けるようなものです。
あまり認めたくありませんが、私は時々、いとも簡単に気を害してしまいます。傷ついた時に他の人を責めるのは簡単ですが、実をいうと私たちは、自分の感情を制御できるのです。そして私は、気を害するかどうかを選ぶことができます。
私は以下のように問いかけることによって、自分が簡単に気を害してしまうかどうかを、正直に検討することを学びました。
- 自分は頻繁に感情を傷つけられていると感じるだろうか?
- 腫れ物に触るように扱わなければならない相手だと、人から言われたことがあるだろうか?
- 苛立ちを感じることがしょっちゅうあるだろうか?
- 誰かが自分に謝るのを期待することがよくあるだろうか?
- 「君に傷つけられた」という言葉を、絶えず何度も口にしているだろうか?
ゆるすことが選択であるのと同様、容易に気を害さないこともまた選択です。
ある時私は、職場でそのような選択を下さなければならないことがありました。新しい人が入ってくるのを楽しみにしていたのですが、残念なことにその女性は初日から私に向かって…そう、気を害するような発言をしたのです。
彼女の行動と、それに対する私の反応の結果として、私たちは頻繁に衝突するようになり、そのせいでうちのチームは、本来できていたであろうほど団結していませんでした。そんなある日、この女性が最近けがをしたことを知りました。その瞬間に、私は決断を下さなければなりませんでした。「自分は彼女にあんな風に扱われたけれど、それでも喜んで憐れみの手を差し伸べるだろうか?」 何を選ぶべきかはわかりきっていました。
そこで、ある同僚と私は彼女の代わりに、急遽幾つかの仕事を片付け、彼女が回復するまでその穴を埋めました。しばらくすると、私は上司に、あんな風に扱われたというのに、なぜこの女性を助けるのかと尋ねられました。
「愛は多くの罪を覆うからです」と私は答えました。この答は1ペテロ4:8からです。詳訳聖書(Amplified Bible)の説明によると、これは愛とはゆるすものであり、人から気を害するようなことをされても気にしないという意味です。
気を害する理由はいくらでもありましたが、主が私の心に、これは親切にする機会なのだという印象を与えられました。その結果、人間関係が改善されて、もっとプロ意識も高まりました。私は彼女に憐みの手を差し伸べて、自分が扱われたいように彼女を扱いました。気を害されたことにこだわるのをやめて、1ペテロ4:8を生活に組み入れようと懸命に努めました。するとうまく行ったのです!
十字架を通して与えられたイエスの愛は、私たちの数多くの罪を覆ってくれました。主のあり余るほどの豊かな御恵みを、人生であなたの気を害する人々の上にあふれさせましょう。—ローレル・シェーラー [1]
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1ペテロ4:8には、「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」とあり、箴言10:12にも「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」とあります。愛によってどのように罪が覆われるのでしょう?
罪を「覆う」とは、それをゆるすことであり、ゆるしは愛に関係しています。罪を覆ってくれる愛の最善の例は、イエスが私たちのために犠牲を払い、死んで下さったことです。「父よ、彼らをおゆるし下さい」[2] という、イエスの十字架上での祈りがすべてを物語っています。イエスが私たちの不義をその身に負われたことは、否定できない愛の行為です。[3] それどころか、イエスは罪を覆われただけではなく、それを完全に取り除かれたのです。[4]
1ペテロ4:8で使徒は、人との関係について語っています。私たち信者は、他の人をゆるすことによって、神の愛を反映するのです。イエスは弟子たちに言われました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」[5] 1コリント13:5には、愛は「不当に扱われたことを記憶に留めない」[6] とあります。互いに愛し合う時、私たちは喜んで互いをゆるし合います。愛は喜んでゆるすことによって、罪を覆うのです。
また、愛は罪について言いふらさないという形によっても、罪を覆います。私たちは、キリストにあっての兄弟姉妹の罪について、耳を傾ける人全員に吹聴したりせず、むしろ思慮分別と慎みを持つべきです。…
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」[7]
愛が多くの罪を覆うもう一つの方法とは、何かと気を害したりしないと決めることです。私たちに対して犯される罪の中には、まともに対峙する価値のないものもあります。個人的な軽い非難や、いやみ、無知な発言、取るに足らない苛立ちの種は、愛によって容易にゆるすことができます。箴言19:11は次のように述べています。「悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。」 忍耐強くあり、人をうらやんだり利己的にならないなら、気を害することすらずっと少なくなるでしょう。愛をもって行動するとは、他人を自分よりも優先することです。愛は多くの罪を覆うことができます。真の愛の内に行動する時、私たちはささいな気を害するような行為を大目に見、挑発を見逃し、罪をゆるすようになります。—gotquestions.orgより [8]
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何年か前、あるアメリカ人の牧師が、アフリカにある自分の教派の教会の一つを訪れました。説教するために壇上に上がると、会衆の服装から、地元の一部族の人々が部屋の前の方に座り、異なる部族の人々が後ろに座るよう強いられているように思われました。
その国に憎み合っている部族が多いことを知っていた牧師は、用意してあった草稿を反故にして、団結について説き始めました。キリストにあって自分たちは一つであり、霊的な兄弟を愛するべきであると。そんなとがめるような説教を終えて、訪問中の牧師が席に着くと、現地の牧師が彼の方に身を乗り出してこう言いました。「うちの教会員が別々に座っているのは、互いに愛し合い、敬意を払っているからです。私たちの文化では、教会で最も良い席に相手を座らせることは、訪問中の部族に栄誉を与える一つの方法なのですよ。」
早まって結論に走らなければ、牧師は恥をかくことも、教会員らの気を害することもなかったことでしょう。説教する前になぜ彼らが別々に座っているのかを尋ねる機会がなかったかもしれませんが、説教の後にそうすることは確かにできました。
私たちは人間関係において、どれほど頻繁にこれと同じような間違いを犯してしまうことでしょう。無礼なウェイターやだらしない同僚や、無神経な牧師や思いやりのない結婚相手のように見える人たちに対して腹を立てる時、自分たちの関係にどんな影響が及ぶと思いますか?
以下のような状況を思い描いてみましょう。
あなたは昼休みに、自宅にいる奥さんに電話して、夕食は何かと尋ねます。彼女はこう言い返します。「わからないわ。急いでるの。後で話しましょう。」 そして電話を切ってしまうのです。
「早まって結論に走る」ルートに進む代わりに、「相手に有利に解釈する」ゲームをしましょう。
もしかすると、こういうことかもしれません。
- 奥さんはあなたのためにサプライズディナーを準備中で、そのことを知られたくない。あなたからの電話で、何か勘づかれているかもしれないと思って、慌ててしまった。
- 幼いジョニーがペルシャ絨毯の上に吐き、ランチが料理用コンロの上で焦げており、誰かが玄関のドアをノックしている。
- 奥さんは恐ろしい腹痛や猛烈な頭痛があり、切実に必要としていた昼寝の最中にあなたに起こされた。
- 奥さんは別の電話で、1分ごとに3ドル払って電話してきているスリランカの親せきと話している。
あなたは帰宅すると、その愛らしい奥さんに、なぜそんなに急いで電話を切ったのかと、愛情深く尋ねます。彼女の答があなたの「相手に有利に解釈する」憶測の一つと合っていたら、あなたの勝ちです。そして合っていなかったとしても、やはり勝つのです。午後の間ずっと、「ちょっとそっけなかったじゃないか」と心中で彼女を批判することをしなかったからです。そして最もいいことに、あなたは意思を通わせようと会話し始めるので、願わくはどんな誤解も二度と生じることはありません。
妻のアセナと私は、町に出かける時にこのゲームをするのが好きです。なぜトヨタのランドクルーザーが自分たちの車の前に割り込んできたのか、レジ係がなぜ私たちをほぼ無視してきたのか、なぜ友人が折り返し電話してくれなかったのかなどについて、何らかの素晴らしい説明を思いつくのです。そして最も重要なことに、自分たちの関係においても、「早まって結論に走って」しまいそうな状況に面した時に、やはり同じことをしようと試みるのです。
ええ、今でも時々、相手をとがめ、一方的に批判するような態度に戻ってしまうことがあります。けれども、それを直そうと働きかけているのです。
自分がしょっちゅう他の人に苛立ったり、腹を立てたり、激怒すらすると気づくなら、それはもしかすると、相手に有利に解釈することの益を考慮したことがないせいかもしれません。—マイケル・ウェブ
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馴れ合いはしばしば相手に有利に解釈することの妨げになるが、相手の行動に目を向けて最悪の推測をしたり、結論に走るのではなく、むしろ相手の心に目を向けて最善の推測をすることは、真に愛情深い行動だ。だから試してみなさい。そして、たとえ間違いがあったのだとしても、「愛は多くの罪を覆う」ことを忘れてはいけない。—イエス、預言で語る
2020年3月にアンカーに掲載
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:ジョン・リッスン