恐れを取り除く愛
Love that Casts Out Fear
March 5, 2019
引用文集
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「完全な愛はすべての恐れを取り除く。」 ちょっとした恐れ駆除剤を用いてみてはかがですか?…私たちは拒絶を恐れて大勢に従い、仲間に溶け込めないことを恐れて、麻薬に手を出します。目立つことを恐れて、他の皆と同じような服装をします。人と同化することを恐れて、他の誰も着ないような服を着ます。一人で寝ることを恐れて、誰とでも寝るようになります。そして愛されないことを恐れて、あらゆる間違った場所で愛を探し求めるのです。
しかし、神はそれらの恐れを一掃してくださいます。神の愛にすっかり満たされた人は、自分の信念を曲げてまで他の人々に愛されようとはしません。神から愛されようとしてさえ、そんなことはしないのです。
あなたは、そうする必要があると思いますか? 「悪態をつくのを控え、もっと祈り、飲酒量を減らし、もっと勉強し…より懸命に努力するなら、神は私をもっと愛してくださる」と思っていますか? その言葉の背後にある、サタンの汚臭に勘づいて下さい。誰もが向上する必要がありますが、神の愛を得ようと懇願する必要はありません。私たちが変わるのは、既に神の愛を持っているからです。神の「完全な」愛を。
完全な愛は文字通り完全であり、過去についての完全な知識や、未来についての完全な展望を持っています。人はその行動によって、神に衝撃を与えることなどできません。神をはっと驚かせ、「わあ、彼女が今やったことを見たかい?」と言わせることのできる日など、決して来ないでしょう。…神はあなたが初めて言葉を発した時から、息を引き取る瞬間まで、あなたの人生全体をご存じであられ、はっきりとこう宣言しておられます。「あなたはわたしのものだ。」
あなたが自分の行動に驚くことはあるかもしれませんが、神は驚かれません。神はあなたの不完全な人生を完全に知り尽くした上で、あなたと契約を結ばれたのです。…完全な愛に何ができるかをご覧なさい。それは裁かれることへの恐れを追い払います。実際に、裁きの日への恐れを取り除いてくれるのです。ヨハネもこう書いています。「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。」[1]―マックス・ルケード [2]
信仰 対 恐れ
恐れや心配の二大要因は、過去と将来です。つまり過去への後悔と、将来への恐れなのです。そして神の言葉は、そのどちらについても思い煩うことを禁じています。主の内にいるなら、あなたは主の子どもであり、心配することなど何一つありません。
心配は恐れの兆候であり、恐れは信仰ではありません。「恐れには苦悩が伴い」、[3] 信仰の欠如は恐ろしく、ぞっとするようなものになり得ます。けれども、神を信じて信頼するなら、体には休息を、思いには平安を、心には満足を、霊には健やかさを感じます。あなたが心配しないよう助けてくれるものとは、信仰です。信仰こそが恐れから守ってくれるのです。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」[4] 信仰の始まりは、心配の終わりです! 主に信頼しているなら、主が世話して下さるとわかるので、心配しなくてもいいのです。
「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」[5] ですから、私たちの救い主であられ、唯一の知恵ある方であられる神に、自分のやり方や人生や、思いや心や時間を捧げましょう! 「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」[6] 主の背中は、どんな荷を運ぶにも十分なだけ広いのです! —デービッド・ブラント・バーグ
神の愛の内にとどまる
「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」—1 ヨハネ 4:17–18 [7]
「こうして」とは、その前の16節の「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」 を指しており、「こうして」、つまり私たちが愛の内にとどまることで神の内にとどまり、神もまた私たちの内にとどまってくださることによって、「愛がわたしたちに全うされている」のです。ヨハネは4:12でも同様に、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」と言っています。
マーティン・ロイド・ジョンズはこう書いています。「愛の内に宿ることは、神が私たちの内にいまし、私たちが神の内に宿っているという事実の、究極的証明である。」 神は人にとって家のようなもので、大抵の人が他のどこよりも家に居たいと願うように、クリスチャンも他のどんなものにもまさって神を望んでいる、と言ってもいいでしょう。…
愛はいかにして、信者の内に全うされるのでしょうか? 試練や患難や迫害を通してです。クリスチャンが試みられる手段は、他の人々です。たとえば、自分たちを憎む人々、自分たちに悪をおこなう人々を愛するでしょうか? それとも、悪をもって悪に報い、恨みを募らせるでしょうか? 仲間を助けて、他の人々を養うでしょうか。それとも、ただ頭の中に教義を詰め込んで、愛のない冷淡な振る舞いをするでしょうか?
神は、ご自分の民の内に始められた、救いを始めとする良きわざの数々を、時と共に、キリスト・イエスの日までに全うされるでしょう。[8] つまり、救いの最終目的は信者が死んで天国に行くことではなく、むしろ神は救いについて、継続的な御計画をお持ちなのです。結局のところ、ほとんどの人は救われた後にも生き続けるし、信仰において、すなわち神聖さにおいて成長せよとの聖句を励みとします。…そして時と共に、神の愛が彼らの内に全うされるのです。人々がもたらす種々様々な問題を通して。
聖書を読むすべての人に、はっきりと示されている一つのことは、死後に訪れる裁きの日には、誰もが裁判官であられる神に面と向かうであろうということです。不信者たちにとって、これは恐ろしい日であり、ほとんどの人はそれについて考えることすら拒みます。しかしキリストの信者たちには、恐れるものなど何一つありません。「完全な愛は恐れを取り除く」からです。事実、彼らは「裁きの日に確信を持って立つことができ」ます。人生における絶え間ない神の臨在により、彼らの愛は時と共に全うされてきたからです。神ご自身のように、神の民もまた、愛によって全うされているのです! 信者たちは、自分たちの罪が十字架の上で裁かれたことや、神が引き続き自分の内にとどまっていてくださることを知っています。彼らのキリストへの信仰や、互いへの愛がそれを証明しているのです。…
ですから、もし完全な愛が恐れを取り除くのであれば、私たち神の民は、この世が私たちに投げつけることのできるどんなものをも、決して恐れずにいようではありませんか。生まれた日から死ぬ日まで、私たちが地上で過ごす時間を神がご存じであるなら、神を愛する人々は、何を恐れるべきでしょうか? 何一つ恐れるべきではありません! それどころか、毎日毎日が、喜んでいるだけの価値がある日なのです。神の愛が私たちの内に全うされ、私たちをますます聖なる者にしているのですから。—D・ランス・ウォルディー博士 [9]
2019年3月にアンカーに掲載 朗読:ジェイソン・ローレンス
音楽:マイケル・ドーリー