犠牲の人生(パート2)
A Life of Sacrifice—Part 2
September 28, 2017
「ロードマップ」シリーズより
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犠牲の人生は、快適で満足のいく安全な人生を願うという、私たちの生来の性質に反しており、それと相戦うことがあります。パウロの名言にもあるように「日々死んで」、犠牲の祭壇で人生を焼き尽くすことは、時に痛みを伴うものです。「一体自分は何をしているんだろう? こんなにつらいのに!」 と、内心つぶやくことさえあるかもしれません。
自分がなぜ、主が求められるような犠牲を払うことを厭わないのかと問いかけることは、非常に重要です。
また、このような問いと向き合うなら、私たちの信仰の祖である偉大な神の人たちや、彼らがその生涯でどんなことを耐え忍び、犠牲にしたかを思い出す助けになります。
ダビデ王は言いました。「わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません。」[1] これは、自分が主に捧げるものには、費用がかかって当然であるという意味に解釈することができます。
そのような犠牲を払えるほどの強さは、どこから来るのでしょう? 使徒パウロはそれをきわめて簡潔に、次のように言い表しました。「キリストの愛が、わたしに強く迫っている。」[2] つまりキリストの愛が、自分を駆り立てるのだと。
主のために生きるよう私たちを動機づけてくれるものとは、私たちのイエスへの愛、そしてイエスの私たちへの愛です。他のどんなものにも、そのような犠牲を当然と思えるほどの強さや、駆り立てる力はありません。主に似た者となってその足跡に従い、他の人のために愛と奉仕の人生を、すなわち究極的には犠牲の人生を意味するものを送るよう、私たちを奮い立たせるのは、イエスへの深く永続する愛だけです。
他のどんな理由で犠牲的な人生を送ろうとしても、あるいは素朴ながらも揺るぎない、私たちのイエスへの愛以外のどんな動機からそうしたとしても、おそらく長くは続かないでしょう。
主から犠牲を払うよう求められると、私たちの価値観や確信や信仰は時として試みられますが、そのような試練を耐え忍ぶに十分なだけ私たちを強めてくれるのは、主への愛です。私たちが自分の人生のための主の御心を成し遂げ、主の手本や御言葉に沿った生き方をしようと努める時、主や他の人への奉仕に人生を捧げるための動機は増し加わり、強められます。
また、私たちが主を愛するのは、最初に主が愛して下さったからであるという事実を覚えておくことは大切です。私たちがイエスのために人生を生きているのは、イエスへの愛ゆえにですが、同時に、主が私たちにご自分の命を与えられたことに対する感謝の気持ちからでもあるのです。聖書は私たちの犠牲を、私たちが「なすべき責務」と呼んでいます。実際のところ、私たちは主への負債を返済しようと努めているのです。もちろんそんなことは決してできないとわかっていますが、そうしようと努めることができるのは有り難いことです。
以下のデービッド・リビングストンの言葉には、この概念がきわめて巧みに要約されています。
人は私がアフリカで人生の大部分を費やし、そこで払ってきた犠牲について語ります。決して返済できないほど大きな負債を、自分が主に対して負っていると素直に認めること、それを犠牲と呼べるのでしょうか? 善をなしているという自覚や、心の平安や、輝かしい運命への明るい希望という報酬を伴う、健全な活動に携わることが、犠牲なのでしょうか? それはまるで犠牲などではなく、むしろ特権です。不安や病気や苦しみや危険や、現世で誰もが享受している便利な生活を手放すことを思うと、幾分ためらいが生じ、決意が揺らぎ、気が重くなることもあるでしょう。しかし、それはほんの束の間のことです。これらすべては、私たちの内に、私たちを通して表される栄光に比べると、言うに足りません。私は犠牲を払ったことなど、一度もありません。主がいと高き父なる神の御座を離れ、私たちのためにご自身を犠牲にされたことを思い出すなら、私たちはそのようなことを、口にすべきではないのです。—デービッド・リビングストン
私たちがこのような奉仕の人生を送る理由を思い起こさせてくれるもう一つのものとは、使徒ペテロの言ったこの言葉です。「わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」[3] 主と他の人のために犠牲を払うことの理由として、そのように、他にどこも行き場がないからというのは、あまり元気づけられることではないかもしれません。けれども、神の言葉とそれが私たちに何をするよう求めているかを理解している、献身した活発なクリスチャンであれば、奉仕し、前進し、与え続け、自身をかえりみずに犠牲の人生を送りたいという、心に強く迫る衝動を否むことはできません。たとえその人生が時として、どれだけ困難で厄介なものであったとしても。
私たちには人生の目的があり、それを達成することに大いなる情熱を抱いています。そして犠牲を払うことは常に心地よいものではなく、時折私たちは、どうにかしてそれを免れたいと願うこともありますが、実際にはそんなことはできません。主を愛しているのですから。だから、他にどんな選択があるでしょう? 誰のところに行くべきでしょうか?
これは、延々と犠牲を払い続ける人生に、身を委ねるべきだという意味ではありません。主が多くの犠牲を要求される時もあれば、少ししか要求されないこともあるといったサイクルが繰り返されることはあるでしょう。主は地上の人生が生易しいものではなく、何の見返りもなしに犠牲を払い続けるなら、私たちがうみ疲れてしまうとご存知なのです。来る日も来る日も、何年も続けて、ある程度の休息や見返りもなしに、注ぎ出し、与え続けることのできる人などいません。そして主は、喜んで休息や見返りを与えたいと望んでおられますが、概して私たちの方が、意識的に「苦しみを忍ぶ」ことを選んでしまうのです。[4]
並外れたことを成し遂げたいなら、そうするための楽な道も、簡単で気軽でリスクを伴わない方法もありません。人生で本当に価値のあるものには必ず代価が、しかも大きな代価がかかります! だからこそ、今この人生で成し遂げようとしていることについて、強い信念を抱かなければなりません。天国のビジョンなしには、これらのどれ一つとして、理に適っていないからです。クリスチャンではなく、来世に目を留めていない人にとっては、地上の人生が自分という存在のすべてであり、彼らは一時的なもののために犠牲を払い、そこから一時的な報いを得ます。
誰もが人生において犠牲を払っていることを、私たちは知っています。大人も子どもも、男性も女性も、若者も年配者も、宗教を信じている人もそうでない人も、裕福な人も貧しい人も、何かを得るために何かを与えるという犠牲の概念は、世界中同じです。人は自分が信念を抱いているもののために、さまざまな犠牲を払います。
人生にはもっと素晴らしい目的や意味があることを理解しているクリスチャンとして、私たちは自分が、地上の人生を終えた後も存在し続けるのだとわかっています。ですから、私たちのためにご自分の命を捧げられた方への愛と感謝ゆえに、賢明にも今この地上で犠牲を払っているのです。将来永遠にわたって主のみもとで暮らし、そこで永遠の報酬を受けることができるように。
聖書は私たちにこう告げています。「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑[あるいは何であれ、これまで主のために捨ててきたものやこれから捨てようとしているもの]を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」[5] イエスはまた、預言の中でこう言われました。「あなたの払う犠牲は、ある意味では頭金のようなものであり、あなたはそれを、わたしの大いなる祝福や報酬が確実に自分のものとなるよう、取ってあるのだ。いつの日か人生の旅が終わると、あなたは払った一つ一つの犠牲によって獲得した祝福を、余すところなく受け取るだろう。」
というわけで、あなたの犠牲は払い戻され、返還されるのです。つまり、クリスチャンにとって犠牲の定義は「損失」ではなく、むしろ私たちは「貴重な何か(自分の人生)を、それ以上に貴重で大切あると考える何かのために捧げて」いるのです。そちらの定義の方が、信仰の人生をより正確に描写していると言えるでしょう。
それを知っていたからこそ、デービッド・リビングストンは、「私は犠牲を払ったことなど一度もない」と言うことができたのです。私たちは永遠の命と共に主から頂いたあらゆるものを主にお返ししようと努めているのですが、そればかりか、主はその上さらに、私たちの払った犠牲を百倍にして与え返そうとしておられるのですから。
以下は、天国のビジョンを保つことについて主が預言で与えられた美しいリマインダーです。現世のあらゆる物事は最終的にはここに向かっているのであり、これゆえに私たちの犠牲は、大なり小なりどんな犠牲であっても、払い甲斐のあるものになるのです!
イエスは言われました:
オリンピック出場に向けて鍛錬する運動選手は、そのビジョンや目標を常に目の前に掲げていなければならない。彼には「オリンピックのビジョン」があり、そのためにどんな厳しく激しい運動や練習も耐え忍ぶ。これにより休憩時間の不足も、疲労も、筋肉痛も、価値あるものとなる。その目標やビジョンの方が、今日味わうどんな一時的な苦痛よりも、重要なものとなるからだ。それらの訓練の年月を持ちこたえるために、その目標は彼にとって、どんなことでも耐え忍ぶことができるほど、価値あるものでなければならない。そしていったんその目標に価値があると確信したなら、それに集中し続け、常にそのビジョンを目前に掲げていられるよう、戦わなければならない。
わたしのために鍛錬し、戦うだけの価値があること、わたしの目標の達成に向けて努力し、わたしの目的のために命を捧げるだけの価値があること、将来についてのわたしの言葉や約束は、それに伴う賞与を得るために他のあらゆるものを放棄するだけの価値があることを、確信しなければならない。そしていったんそうしたなら、その焦点やビジョンを常に目の前に掲げておく必要がある!
あなたがたの多くは、すでにそのような決意を固めているが、今は粘り強さと信念の時代であって、人は焦点を見失うことなく、天国のビジョンを保てるよう、戦わなければならない。つまり、わたしのビジョンを動機として、オリンピック選手のように鍛錬し努力し、生きなければならないということだ。そうすれば、新たな一日に臨もうと意欲満々になって、朝起きることだろう。わたしこそが、あなたが出て行って、魂に手を差し伸べて勝ち取りたいと望む理由となるだろう。わたしがあなたの動機の中心となるのだ。
天国のビジョンを保つために、あなたにできることとは何だろう?
日々わたしを第一に置きなさい。わたしの言葉の良質な滋養を、霊の内に摂取できるよう、戦いなさい。これはわたしのビジョンによって新たにされ、わたしの天国のビジョンを絶えず思い出すための、最も効果的な方法だ。
日々わたしの言葉にある教えに沿って生き、あなたのためのわたしの意志と目的を果たすことができるよう、懸命に努力しなさい。
賛美と感謝の霊の内に歩みなさい。わたしはわが民の賛美を住まいとするからだ。[6] —イエス、預言で語る
活発なクリスチャンの人生は、ライフスタイルの面で必ずしも快適であるとは限りませんが、霊の内では確固として揺るぎなく、他の何にもまさって安定しています。それは主を基盤としており、次のような約束を与えられるだけ十分に強く、揺るぎなく、信頼できるお方は、主だけだからです。「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」[7] 「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」[8]
他の誰も、そのような約束を与えることはできません。全宇宙を探しても、そのような保証は存在しないのです。それがクリスチャンの持つ保証です。それこそが「神という要素」であり、人はそれを信じ、信頼し、それに命を懸けることさえできます。
「ロードマップ」は若い大人向けにTFIによって制作されたビデオ・シリーズ。初版は2010年 2017年9月に改訂の上、アンカーにて再版
朗読:サイモン・ピーターソン