「晩鐘」に学ぶ
Lessons from the Angelus
April 5, 2013
ヘンリー・ドラムンド (1851–1897)の説教より要約
神はしばしば、音楽を通して人の心に語りかけられます。また、芸術作品を通して語りかけられることもあります。「The Angelus(晩鐘)」と題されたミレーの有名な絵画は、絵によって表現された言葉であり、今晩はそのことについてお話ししたいと思います。
この絵には3つのものがあります。じゃがいも畑と、その真ん中にたたずむ田舎の少年と少女、そして遠くの地平線上には教会の尖塔。たったそれだけです。壮麗な景色もなければ、人目を引く美しい人々もいません。ローマカトリック教徒の国々では、夕方になると教会の鐘が鳴り、人々に祈ることを思い起こさせます。教会に行く人々もいれば、畑で働いている人たちは、しばしの間頭(こうべ)を垂れて黙とうします。
その絵には、クリスチャンの人生を申し分なく釣り合いの取れたものにしてくれる、3つの素晴らしい要素が含まれています…「晩鐘」は、まったき人生を構成する要素とは何たるかを示唆しているのです。
釣り合いの取れた人生を構成する第一の要素とは、仕事です。
おそらくは、私たちの時間の4分の3が仕事に費やされています。もちろんそれは、私たちの仕事がその礼拝と同じくらい敬けんなものであるべきで、神の栄光のために働くのでない限り、人生の4分の3は清められていないということを意味します。
仕事が敬けんなものであるという証拠に、キリストの人生の大半は仕事に費やされています。キリストは人生の最初の30年間の大部分を、金づちやかんなを手に働き、すきやくびきや家具などを作ることに費やします。キリストが公に宣教活動をされたのは、地上の人生のたった2年半にすぎません。主はご自分の時間の大部分を、ありふれた日常的な仕事に費やされたのであり、それ以来、仕事は新たな意味合いを帯びるようになりました。
初めて世に来られた時、キリストはご自分にまみえ拝するためにやって来た3人の代表者たちに、御姿を表されました。まず労働階級の象徴である羊飼いが、2番目に学生階級の象徴である賢者たちが、3番目に神殿から、シメオンとアンナという二人の老人がやって来たのです。つまり、キリストは働く人々に現れ、学問に励む人々に現れ、神を拝する人々に現れたのです。礼拝中にキリストを見つけたのは年配の人々だったのであり、私たちは年を取るにしたがって、今はない時間をたっぷり持てるようになり、その時間をもっぱら礼拝に費やすようになります。それまでは、礼拝を仕事に組み入れなければなりません。そうすれば、きっと本や日常的な仕事の中にキリストを見いだすことができるでしょう。
当然のことながら、人生で最も大切なもう一つの要素とは、神です。
「晩鐘」はおそらく、今世紀描かれた内で最も宗教的な絵画と言えるでしょう。帽子を脱いで畑にたたずむ青年と、青年と向かい合って手を組み頭を垂れる若い女性を見ると、そこに神を感じずにはおれません。
私たちは行く先々に、神を思わせる雰囲気を携えているでしょうか? そうでないなら、人生で最も大切な部分を見逃していることになります。私たちはどこにいようと、神の普遍の存在を固く信じているでしょうか? 神についてのより幅広く聖書に基づいた見解ほど、この時代が必要としているものはありません。米国のある偉大な作家が話してくれたのですが、彼が少年時代に本を読んだり説教を聞いて思い浮かべていた神の像とは、博学で厳格きわまる法律家、といったものだったそうです。私も自分が少年時代に思い描いていた、恐ろしい神のイメージを覚えています。ある人からもらったワッツの挿絵入り賛美歌集の中で、神は壮大な黒い嵐雲の真ん中で見ている、大きな鋭い目として描かれていました。私はその絵を見て、幼心に、神は私の行動を密かに見張っている腕利きの刑事で、その賛美歌の歌詞のように、「幼い子どもたちの行いをたった今書きとめている」のだと想像したものです。
それはひどく誤った有害な概念で、私はそれを心から拭い去るまでに何年もかかりました。私たちは神のことを、「上の方」におられる方、あるいは6千年前に世界を創造し、その後引退された方であると考えます。しかし私たちは、神が時間にも空間にも制限されていないことを、学ばなければなりません。神はずっと昔におられたというだけの方であるとか、宇宙の彼方におられるなどと考えてはいけません。それでは、どこにおられるのでしょう? 「言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にある。」 神の御国は皆さんのただ中にあり、神ご自身が人々のただ中におられます。私たちはいつになったら、子ども時代の恐ろしげで、はるか彼方におられる、不在がちな神を、聖書にあるような、あらゆる場所に遍在される神に置き換えることができるのでしょうか?
昔のクリスチャン著述家のあまりに大勢が、神を神格化された皇帝のような、最も偉大な人物にすぎないかのように考えていたようです。しかし、神はそれよりもはるかに大いなる方です。イエスが井戸端の女性に言われたように、神は霊であり、私たちは神の内に生き、動き、存在します。神をインマヌエル、すなわち我々と共にいます神であると考えましょう。常にそばにいて下さり、同時にあらゆる場所に存在される、とこしえの神であると。遠い昔、神は物質を造られました。それから花や木々や動物を、そして人を造られました。それでやめられたのでしょうか? 神はもう死んでおられるのですか? もし生きて動いておられるとすれば、何をされているのでしょう? 神は人間をより良い者にされているのです。
神は「あなたがたの内に働かれる」方です。私たちの性質は、まだそのすべてが芽生えたわけではなく、それを芽生えさせる樹液は、私たちを造られた神から、私たちの内なるキリストから来ます。私たちの体は聖霊の宮であり、私たちはそのことを心に留めていなければなりません。神を感じる心は、理論ではなく経験によって保たれるからです。
耳が聞こえず、口が利けず、目が見えなかったボストンの少女ヘレン・ケラーの人生は、彼女が7歳になるまで完全な空白状態でした。耳や目が外界に対して閉ざされていたために、何ものも彼女の心に入り込むことができなかったのです。それから、あの発見された素晴らしい過程を、すなわち目の見えない人が見、耳の聞こえない人が聞き、口の利けない人が話すことを可能にする過程を経て、少女の魂の扉が開いたので、彼らはそこに少しばかりの知識を投入し、それから少しずつ彼女を教育し始めたのでした。宗教の教育はフィリップス・ブルックスに委ねられました。ヘレンは数年後、12歳の時に彼のもとに送られ、フィリップはごく微妙な手の触れ具合によって彼女と意思疎通できる若い女性を通して、彼女に語りかけ始めました。神についてや、神がどんなことをされ、どれほど人を愛して下さったか、また神が私たちにとってどのような存在なのかについて、彼女に語り始めたのです。少女はとても賢そうにその話に耳を傾けていましたが、ついにこう言いました。
「ブルックス先生、そのことはどれも前から知っていました。ただ、その方の名前を知らなかったのです。」
私たちは心の中の何かが、自分では決して想像することもできないような、あるいは自分だけではできないことを可能にしてくれるようなことをするよう駆り立てるのを、どれほど頻繁に感じてきたことでしょう。「それはあなたがたの内に働きかける神である。」 この重要にして単純な事実は、人生の多くの謎を解明し、目前に横たわる困難に面した際に、さもなくば抱いていたであろう恐れを取り去ってくれます。
人生の3番目の要素とは、愛です。これからそれについてお話ししたいと思います。
私たちはこの絵の中で、青年と若い女性がかもし出す微妙な仲間意識に気づきます。彼らが兄妹であるか、恋人同士であるかにかかわらず、そこには先ほど挙げた2つに続いて、私たちの人生の最後の構成要素である友情を思わせる何かがあります。男性や女性が一人きりでその畑に立っていたとしたら、それは不完全なものになっていたでしょう。
愛は人生の神聖な要素です。「神は愛」であり、「愛する者は神から生まれた」のですから。したがって、誰かも言ったように、私たちの「友情をこまめに手入れしましょう。」友愛に満ちた心を育むのです。そしてキリストの愛によって、それを大いなる愛へと成長させましょう。友人たちのためだけではなく、全人類のために。あなたがどこに行って何をしようと、人生にこの要素が欠けている限り、あなたの働きは失敗に終わるでしょう。
これら3つの要素は、釣り合いの取れた人生を形成するにあたって、大いに役立ちます。中にはこれらの構成要素のバランスが取れていない人もいるかもしれませんが、これらのどれか一つが欠けているなら、それが与えられるよう祈り、人生が神の本来意図しておられたような、釣り合いの取れたまったきものとなるよう、働きかけましょう。
2013年4月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガーシア・ヴァルディヴィエソ。