御国の祈り
The Kingdom Prayer
January 28, 2019
デービッド・ブラント・バーグ
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「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」[1]
「あがめられる」とは、聖なるものとみなされ、栄光を帰され、尊ばれるという意味です。神の御名は聖ととなえられていますが、他にも数多くの名前をお持ちです。神は「わたしはある」という方であられ、また旧約聖書には、ヤハウェやいと高き方、聖なる方といった神を表す言葉が幾つもあり、もちろん神や主もそれに含まれます。
「神」というのは、原文のヘブル語からの訳語の一つであり、訳文で「神」と呼ばれている箇所は、実際には幾つかの異なるヘブル語から訳されたものです。アドナイもその一つだし、エロヒムという複数形になった神の名前もあります。イエスはその言葉を十字架の上で用いられましたが、ただしその時はご自分の父なる神に向けて語られていたため、単数形のエリでした。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、 つまり「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[2] とおっしゃったのです。
神はイエスをお見捨てになったのでしょうか? ええ、ほんの束の間ではありましたが。神はほんのひととき、十字架上のイエスに背を向けて死ぬに任せ、神もなく救いもない状態で、罪びとが味わうような苦しみを経験させなければなりませんでした。イエスは、罪びとが神なしに死んでゆく時に受ける罰を、その身に受けねばならなかったのです。
神は死にかけているご自分の御子に、故意に背を向けねばなりませんでした。本来私たちが死ぬ時に感じるはずであった苦しみを感じさせるために、そうされたのです。神は十字架で死んでゆく主に背を向け、見捨てなければなりませんでした。考えてもみて下さい! 神もイエスも、それほどまでにあなたを愛しておられたのです。実際に十字架上で罪びとの死を苦しむのも厭わないほどに。しかし、イエスは神がご自分をいつまでも捨て置かれることはないとご存知でした。そこで、死に際に何と言われたのでしょう? 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」[3]
「御国が来ますように。…天におけるように地の上にも。」[4] つまり、今、天において御国があるように、将来、「地の上にも」御国が来ますようにということです。
そして天の御国は、どんな風なのでしょう? 黙示録21章と22章には、天国の詳細に渡る描写があります。「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり…』」[5]
黙示録には、その都の長さと幅が、大まかに言ってそれぞれ1500マイルほどになるであろうと書かれており、それはつまり、約225万平方マイル、つまりヨーロッパ[ロシアを除く]とほぼ同じか、アメリカ合衆国の半分の大きさです! 懐疑主義者たちはもちろんそれを信じませんが、私たちは聖書が真実であると知っています。
聖書が真実であるとどうしてわかるのでしょう? 私たちは、それが神の言葉であるとなぜ知っているのでしょうか? ペテロは、私たちの信仰について説明を求められた時には、いつでも答えと弁明のできる用意をしているべきであると言いました。[6]
わたしの母はかつて、大学である本を読むよう課題を与えられた女学生についての話をしたものです。彼女はその本が味気なく面白くないと感じ、後で読もうと思って、それを衣装棚の上段に放り込みました。その後、ある男性が大学にやってきて講義をしたのですが、彼女は講義を聞いているうちに、彼が例の本の著者であると気づきました。講義を聞いた後、彼女は即座に帰宅し、衣装棚の上段に埋もれていた本を引っ張り出して、それを読みました。以前は味気なく面白くないと思っていた本が、なぜそんなにも突然に興味深いものになったのでしょう? 彼女は今著者を知っているからです!
それと同様に、私たちが聖書が真実であると知っている一つの理由も、その著者を知っているからなのです! 聖書が本当であるとわかるのは、その「著者」を知っており、その方が決して嘘を書くことなく、正しいことを言われると確信しているからです。あなたも、誰かからその著者を紹介される前は、あまり聖書に関心がなく、それが正しいかどうかもわからず、それを読みもしなければ、おそらくは信じてすらいなかったことでしょう。けれども、いったん著者である方を知ると、聖書に興味が沸き、その方が何と言われたのかを知りたくなるのです。
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」[7] ある人が小さな男の子に、「『御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも』ってどういう意味だい?」と尋ねると、その子はそれが、「たった今」この時にということであると答えました。そして神もまた、地上でそのように御心を行いたいと望んでおられるのです。
神の御国はたった今、どこにあるのでしょう? 天にあるだけではありません。たった今、私たち自身が神の御国です。神の御国はあなたの只中にあります。つまり、あなたや私がそうなのです。ですから、神の御心がたった今この時に行われるとしたら、誰によってなされるのでしょう? あなたや私や、イエスを信じているすべての人々です。私たちはすでにそのようにしているべきです。たった今、神の御心を行っているべきなのです。
「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」[8] 「日ごとの食物」というのは、私たちの地上のすべての必要という意味です。私たち全員がそれを必要としており、神は私たちがそれを祈り求めることを望まれます。それを受け取った時に、神に感謝を捧げることができるように。
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」 言い換えると、「わたしたちに対して罪を犯した人をゆるすのと同じだけ、わたしたちの罪をもおゆるしください」ということです。
主はそのすぐ後に、こう言われました。「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」[9] 自分が他の人をゆるすのと同じだけ、自分をもゆるして下さるよう、主に願い求めなければなりません。そしてあなたが不寛容で、他の人をゆるさないなら、自分が悪いことをしたと思う時、主はゆるして下さらないでしょう。それはかなり強烈な聖句です! 神は憐れみに満ちた神であられるのと同様、正義の神でもあられるのです。
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」[10] 主は私たちを誘惑したりされないし、また、私たちが誘惑に遭った時に、それが神から来たものだと言わないようにと書かれています。神は悪の誘惑に陥るような方ではなく、また人を誘惑することもなさらないからです。[11]
祈りのこの部分は、厳密に言えば、「試み」のことを指しています。主が時々、試みに遭うような状況へと私たちを導かれるからです。けれども、神の言葉は、神が「あなたがたを耐えられないような試錬[試み]に会わせることはない」[12] と言っています。ですから、私たちは悪から救い出されるよう祈るべきであるし、主があらゆる悪から救い出して下さるよう、心から望んでいるのです。
その後、話は再び御国に戻ります。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」[13] 永遠にわたって、神をほめたたえましょう!
その祈りを祈り続け、またその祈りの通りに生きようではありませんか。イエスの御名によって、アーメン。
初版は1985年1月 2019年1月に改訂・再版
朗読:サイモン・ピーターソン