解放の喜び
The Joy of Getting Unstuck
August 6, 2014
ブランドン・スミス
忙しいです。
皆さん同様、家族や教会や仕事、それにその合間にあるあらゆることにおいて、大量の事柄に携わっています。こんなことを言うのは私が初めてでしょうが、それらは疑いなく、神からの贈り物なのです。私に驚くほどの思いやりをもって接して下さる神に、心から感謝しています。
とはいえ、疲れます。
率直に言って、時々どうしようもなく疲れてしまうのです。私たちが生きるこの加速化した世界では、誰もが限界以上に無理をし、十分な休息を取らないことがあります。科学技術のおかげで、私たちはより素早く仕事を片付けることができますが、それと同時に、より注意散漫になる原因も増えるのです。ある意味では、悪循環と言えます。
そこで、こう自問してみました。「私が今していることをしている理由とは何なのか、また私の優先事項は何なのか?」
さらに重要なのは、「私の忙(せわ)しさの根底にある誘因とは何か、そしてなぜそれは、時折私の喜びを奪ってしまうのか?」ということです。私が最近経験したことをもとに、この質問に答えてみたいと思います。そして願わくは、それが、私が歩んだような行き詰まりの人生から、皆さんを遠ざけてくれますように。
私が行き詰まった時
今年に入ってから、私は壁にぶち当たりました。あまりにも忙しい生活にたまりかねて、危うく押し入れに閉じ込もり、身を隠そうとしたほどです。圧倒され、地面に張り倒されたように感じました。エンジンが壊れ、タイヤが4輪ともパンクした古い貨物トラックのような気分だったのです。もうお手上げ状態でした。
正直に言うと、私は目を神から離して、自分に向けていたのです。家族生活や、仕事や学校や御仕事において果たすべき数々の義務を、心から神に栄光を帰すことよりも優先していたのです。どういうわけか、自分がイエスに似たものとなるために、神によって創造されたことを、忘れていました。[1] これこそが、神が私に求めておられるあらゆる事の背後にある真の理由だという事実を、見失っていたのです。
覚えていて下さい。私たちは皆忙しいものの、忙しさ自体は信心深いことでも、罪深いことでもありません。忙しさのせいで並外れたクリスチャンになったり、悪党になるわけではありません。それは表面下で沸き立っている罪や誘惑を、露わにするだけです。
私たちの多くは時間を、尊い贈り物ではなく、再利用できる日常品のように扱います。自分が時間を与えられているのではなく、所有しているかのように振る舞うのです。私の場合は、あくせく働くことにその兆候が現れていました。万事をそつなくこなして、仕事を素早く効率的に片付ける働き者であると、皆に思われたかったのです。
休息に満ちた従順
言うまでもなく、動機はプライドと利己心でした。そしてこれが理由で、時折押し入れに閉じこもりたいと思うようになったのです。忙しさを自分で何とかしようとするなら、精根尽き果ててしまいます。私たちは自分だけでやっていくようには造られていません。むしろ、神の恵みと栄光に頼り、信頼するよう造られているのです。自分の忙しさ(ビジーネス)ではなく、神の御仕事(ビジネス)に携わるように、また、自分の権限を行使するのではなく、神の目的を果たすよう造られているのです。
多忙さは、確実に身体的かつ情緒的な疲労を引き起こしましたが、私は霊の休息を切実に必要としていました。自分の仕事ぶりを神に認めてもらおうとするのをやめて、むしろその奉仕によって、神に栄光を帰す必要があったのです。神は将来を見ておられ、恵みに満ちた方であって、ひどい緊張を伴う責務という鎖なしに、ご自分に仕えることができるよう、私を備えて下さっていると思い出す必要がありました。
キリストは私を自分に頼ることから解放し、その恵みへと結びつけて下さいました。私が神の願いを聞いてあげているのではありません。神が私に使命を与えておられるのです。私の人生や家族や仕事、これらすべては神からいただいたもので、神のためにある、そう信じることができます。そして私は、完璧になる必要もありません。神の栄光が自分の力不足を乗り越えてくれると期待しつつ、自分に与えられた召しに従順であればいいのです。
解放の種類
結局のところ、私の苦闘は自分の忙しさというよりも、物の見方に関係していました。隠れる押し入れを捜す代わりに、休息を与えられる唯一の方に目を留めるべきだったのです。そして絶望と疲労の中で呼ばわった時、神はわたしに責任を与えているのには、理由があることを思い起こさせられました。神は常に、ご自分の栄光と私の益とに照準を定めておられるのです。私はそのことを忘れていました。神は憐れみ深くも、休息を求める私の祈りに対して、承認ではなく訓戒という形で答えて下さいました。休息とは、責任からの解放ではなく、自己満足的行為からの解放なのです。これには大きな喜びが伴います。
聖書は、私たちが働くのをやめるようにとか、一日にこれだけの時間働くべきであるなどという指示は与えておらず、むしろ私たちの心に焦点を当てています。私たちの大半は「僕(しもべ)」と見なされはしないでしょうが、パウロのこの言葉から益を受けられます。
僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。 [2]
行き詰まりからの解放
喜びが砕け散った時、どうすれば行き詰まり状態から解放されるのでしょう? あるいはもっといいのは、どうすれば、初めから行き詰まらなくてもすむのでしょう?
まず、神が状況を掌握しておられることを思い出して下さい。神はあなたから離れることなく、あなたが苦闘する姿を見て驚かれることもありません。
2番目に、自分の栄光ではなく、神の栄光を願う心が与えられるように祈りましょう。そうすることは常に難しいものですが、最も報いのあるステップです。
3番目に、あなたの時間に優先順序を設けましょう。仕事がキリストと家族に身を捧げることの妨げになってはいけません。時間を賢く使う独創的な方法を見つけるか、神への、そして神が自分の人生におかれた人々への奉仕に割り込み、邪魔するものを切り捨てましょう。そうするだけの価値はあります。
From http://www.churchleaders.com/pastors/pastor-blogs/173977-the-joy-of-getting-unstuck.html.
ブランドン・スミスはProject TGMの編集者であり、CityView Churchの牧師およびフリーランスの作家。