時間がかかるもの
It Takes Time
January 26, 2015
マリア・フォンテーン
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イエスと一緒の人生ほど素晴らしいものはありません。時間やエネルギーを、他の人たちに主のメッセージを伝え、彼らに主の愛や救いをもたらすという使命につぎ込むなら、大きな充実感と報いが得られます。ファミリー・インターナショナルが全体として与える証し、つまり個々の人の証しがすべて集まったものは、とても力強いものです。
主があなたになってもらう必要のある証し人になるのがより簡単な時や状況もあれば、より難しい時や状況もあります。職場や学校や大学での日常で、周りの人に主のメッセージや霊的な真理を伝えるのは、難しい場合があります。見知らぬ人に証しをするのもそれなりに難しいことですが、親しい人、たとえば自分の家族や友人や同僚などに証しをするとなると、より難しい場合があるのです。
私たちの多くは、「この人に証しをするのは大変だ」と感じる人がいることでしょう。けっこう近い人が、自分の信条や選択を支持していない場合、それは大変な状況になりえます。そういった友人や知り合いや親せきが、たくさんいる人もいることでしょう。
まだメッセージに受容的でない周りの人に対して信仰の手本となり、証しとなる上で、主と主の言葉が、あなたやあなたの愛する人たちに役立つ洞察や力、導きを与えて下さるよう祈ります。
すぐに結果が出ることを期待してしまう
証しや、人々を弟子にすることにおいて、私たちは、すぐ結果が出ることを期待しがちです。とんとん拍子に進み、ちょっとおまじないを唱えるだけで結果が出るとでもいうように考えてしまうのです。そうやって素早い成果を求める態度でいると、忍耐に欠け、勤勉さや忠実さにも欠けることになりかねません。素早い奇跡的な結果が得られればそれは素晴らしいですが、そうでない場合に、何か間違っていると考えて、忍耐を切らしたり、がっかりしたり、イライラしたり、自分を責めたりすることがあります。
私は教会で育ちましたが、何年も何年も夫が救われるように祈った奥さんたちの話を繰り返し耳にしました。また、主を顧みない親せきが救われるように何年も祈り、その人が、臨終のときになってとうとう救われた、などといった話です。多くのクリスチャンは、誰かが救われるように祈るのなら、その人が主のことを知り、受け入れるまで、繰り返し祈りに祈るものだと考えます。
けれども私たちは、そういう見方はしない傾向にありました。私たちは、種をまく人というよりは、刈り取る人である場合が多かったのです。刈り取り、収穫を得、実をつむのに慣れていて、種をまき、肥料をやり、育てることにはあまり慣れていません。だから、種をまいて育てるという仕事をしなければならないと、忍耐が切れてしまい、あまり勤勉で忠実ではないことがあります。即座の結果を求めるからです。
自分が慣れているほどに素早く物事が動かなくても、あるいは、努力が目に見える成果をあげなくても、忍耐を切らしたり、いらだったり、自分を責めたり、心配したり、何かが間違っている、うまくいっていないと考えたりすべきではありません。すべてが、私たちが慣れているほどに素早く動くわけではないし、そうあるべきでもないからです。
1日か2日で奇跡的に素早くいやされないなら、主に対して、「主よ、私のどこかが間違っているに違いありません」とか、「私たちの祈りが間違っているのでしょう。どこかで何かが間違っています」と言ってしまいます。主があなたに何か語りたいと思っておられる場合もあり、そのような質問をするのは良いことなのですが、質問をして、何も間違ったところが見つからないなら、実際に何も間違っていないのかもしれません。あるいは、主はあなたの信仰を試しておられるのでしょう。
私たちは、スピード社会で、めまぐるしく物事が進む時代に生きており、多くを成し遂げたいと考え、時は短いのだから、すべて今やってしまわなければと考えます。それはある意味では悪い態度でもありません。実際その通りなのですから。主は、私たちが時間を無駄にせず、多くを成し遂げることを望んでおられます。しかし、主には主のタイミングがあり、物事によっては時間がかかり、忍耐が必要であることを認識する必要があります。
一番多くの実を結んできたのは、同じ場所にとどまり、ゆっくり、系統立てて、確固たる実り多いミッション活動を設立してきた場合であることがよくあります。日々、週ごとに、月ごとに、新しい改宗者を忠実に世話し、その人たちがゆくゆくは近い友人となり、サポーターとなったのです。必要な時にボランティアで助けを提供し、信仰の生きた手本になってくれているという良い評判をもらうことによって、隣人や近所とも良い関係を築いてきました。
私たちがバランスを学び、物事によっては、達成するのに時間がかかるということを覚えておくことができますように。
ミッションの祈り
イエス様、あなたが私たちのために設定したゴールは、より多くの弟子を見つけることです。あなたとの関係を築ける人、あなたの愛や真理を伝えるよう、他の人に教えることのできる人たちです。あなたは言われました。「収穫は多いが、働き人が少ない。」 それであなたは、収穫のために働き人を送りだすように祈りなさいと、私たちに教えられました。[1] 救いというあなたの贈り物を受け入れ、自分の人生を変えてもらうだけでなく、良き知らせを他の人たちに伝えるというあなたからの使命を感じる人たちへと、私たちを導いて下さい。
救いの尊さや、その真理を他の人たちに伝えることがどれほど大切かを認識し、あなたが地上に来て、人類の罪のために命を捧げて下さったことの尊さを理解し、それゆえに、救いや永遠の命というあなたの尊い贈り物を、誰もが手に入れられるようにしようとする人に、私たちを出会わせて下さい。あなたの愛と憐れみによる偉大なる行為の価値を認識し、その真理のおかげで自分の人生が変わったことから、それを人にも伝えたいという情熱をもち、彼らにも同じ変化が起こるよう助けたいと思う人たちと共に働く扉を開いて下さい。
愛するイエス様、生涯で人が必要とするすべてをまかなうだけのお金を受け取ること、誰かの夢を実現させるという結果につながる機会を持つことは、大半の人がどんな代価を払ってでも受け取りたいと願うことです。しかし、そういったことも、救いの賜物とは比べものにもなりません。救いははるかに貴重なです。尊くて、誰もが必要としているものです。
素晴らしい創造主、あなたの愛は、とても深く私たちの人生にふれました。私たちは、宇宙の神であるあなたと個人的な関係を持っています。言葉に表せぬあなたの平安を持っています。あなたの保護の約束、あなたの導きを受けており、あなたの知恵の言葉へのアクセスがあります。あなたと共に永遠に生きるという、来世の美しい人生の保証をいただいています。
そうした宝物を自分たちだけのものにしておきたくはありません。あなたや、あなたの霊的な富の素晴らしさを他の人たちとも分かち合えるように、また、私たちが勝ち取り、教えた人たちが、さらに他の人たちに教えていくことができるよう、切に願います。祈りは私たちにできる最小限ではなく、最大限のことだとあなたは言われました。
ミッションのためにあなたにとりなしするこの機会を感謝します。あなたが私たちに手をのばしてほしい人たち、今もあなたが心を備えておられる人たちのために祈ります。主よ、あなたこそが、人々を導き、真理へと連れて行かれる方です。あなたが、使命を与えられる方です。あなたの霊は、人々の人生で動きます。あなたこそが、彼らを救う方です。
イエス、真の救命具
わたしに従うあなたは、人々がおぼれるのを見て、救命具である私を投げ入れる。私は、彼らが頼みの綱とできるロープであり、彼らを真に永久的に救うものである。私を人生に受け入れる者は、その救命具をつかみ、わたしに信頼する者である。
だが、逆巻く波にのまれた時にさえ、誰もがすぐに、それまで自分がしがみついていた他の救命具を手放すわけではない。彼らの信仰は弱く、何を信じたらいいかわからず、何よりも、彼らの心は恐れで満ちており、彼らの周りに一つとして、彼らを支えられるほど強いものはない。だから、救い主が必要で、神との和解が必要で、人生には意味が必要だとわかっているのだが、長年の無知と恐れのゆえに、しがみつくものがなくなることを極度に恐れている。そのような人は、他の神々や、宗教、良きわざ、といった他の救命具を手放すのを恐れる。それでも、彼らに真の救命具であるわたしを与えない理由にはならない。わたしは、失われた者たちを探し、救うためにやってきた。それがわたしの目的である。
時がたつにつれ、生と死は、あらゆる信条を試す。しのぎきれないような大きな波が、ゆくゆくはすべての人の頭上で砕け、救い主が必要であることを証明する。人は、あらゆるロープを引き寄せてみて、岩につながれているのは一本だけだと知る。わたしこそが、世界を救う救命具である。わたしにしっかりつかまる者は、安全に岸辺に着くことができると保証しよう。―イエス、預言で語る。
2015年1月アンカーに掲載。朗読:キャロル・アンドリュース。
1 マタイ 9:37–38.