ヒーローになる方法
How to Become a Hero
July 4, 2017
引用文集
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『わたしの隠れ場』(第二次世界大戦下でユダヤ人を救うために命を危険にさらしたコーリー・テン・ブームの体験談)を読んで、自分もまた、やがてコーリーが持っていた勇気や自己犠牲の精神を要するような時に面したなら、それを持てますようにと、必死で祈ったことがあるのを覚えています。
どうすればそんな人になれるのでしょう? ジョナサン・パーネルは、シアトル・パシフィック大学の銃撃事件の際に、命をかけて級友たちを救ったジョン・メイスについて、Desiring God Blog に書いた記事の中で、それに関する見解をいくらか述べています。
甚大な損失をこうむるような出来事において、他の人の益を自分の益に優先するのをいとわない人は、日々の何百というささいな損失においても、同様に振る舞っている人です。ジョー・リグニーはこう述べています。「私たちは常に、将来の自分になりつつあります。今この瞬間にもどこかしらに向かっており、遅かれ早かれ、必ずそこに到達するでしょう。」 (『Live like a Narnian』 52ページ)
ですから、大きな犠牲を払う人は、小さな犠牲の数々をも払っているに違いありません。彼らは、犠牲的に愛する人の人生には、大いなる喜びがもたらされることを見出しているのです。パニック状態の真っ只中でも、犠牲的な愛という形で反応できるのは、正常な状況下で犠牲的な愛を示し続けてきたことによって、最終的に生じた結果です。‥‥
勇敢な行為をする決定的瞬間というのは、何もないところから生じるわけではなく、その背後にはささやかな犠牲を払った数々の小さな瞬間があり、それがずっと、そのような方向へと導いていたわけです。要するに、皿洗いやおむつ替えができないのに、弾丸の前に身を投げ出すことができるなどという考え方はありえないのです。困っている人々のために時間やお金を出し惜しんでいるなら、無実の人々に銃が向けられた時にも、自分の命を惜しむことでしょう。
ジョンのような話を聞くと、自分だったら同じ反応をしただろうかと、少し考えさせられます。しかし、問題は私たちが特定の状況下で何をするかではなく、今何をしているかということです。
私たちは実際に試みられるまで、自分がどのような人間になったかを、本当に知ることはないでしょう。その時までは、聖霊の助けによって、日々あらゆる瞬間に、命を投げ出すことができるよう祈りましょう。「大きな犠牲を払うことができるのは、小さな犠牲の数々を払っている人である。」 今こそ信仰の導き手であり完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、主の御力によって死ぬことを実践すべき時です。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」[1]—エイミー・K・ホール [2]
ヒーローの心
子どもの頃にヘブル11章を暗記したのを覚えていますが、そこにはかなり多くのぞっとするような死に方が、詳細にわたって描かれていました。「彼らはのこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。」[3]
それを読んで、死ぬ時はどれほど痛いのだろうと考えたものです。痛みに関してはかなり臆病な方なので、もし人が死ななければならないなら、一番痛みの少ない方法は何だろうとあれこれ考えました。できればそういう死に方がよかったのです。どうしようもない弱虫のように振る舞って、神の顔に泥を塗るようなことをしたくありませんでした。
今日振り返ってみると、子どもの頃そんな風に心配していたことが、おかしく感じられます。真の問題は、常に自分が意気地なしであると感じていたことにあると、今ならわかるからです。聖書には勇敢な行いをした人たちの話が無数にあります。ほとんどどの書を開いても、勇気ある行動が数多く描かれているのです。先ほどのヘブル11章にも、そのような勇敢な人々の名が挙げられています。「このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。」[4]
この章に名を連ねている勇敢な男たちを見ると、「courage(勇気)」という言葉の語源(「心」)が、より深い意味を帯びてきます。彼らは心を正しく保ちました。そのような勇敢な行いをした人たちには、彼らの勇気の源である、素晴らしい共通点がありました。詩篇37:31でダビデ王は、正しい人についてこう述べています。「その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。」
聖書には、3人のヘブル人少年についての有名な話が書かれています。彼らは金の像を拝まなければ、火の燃える炉に投げ込むと言われました。しかし、その少年たちは確信を貫いて、像を拝まないと言いました。激怒する王にそう答えた時、彼らはおそらくそれが、自分たちの最期の言葉になると思っていたことでしょう。
「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。」[5]
私はこの話を、そのような場面から何千年もかけ離れた、安全な家の中で読んでいるわけですが、それでもなお、彼らの信仰の強さは、その言葉が声高に語っています。彼らはためらうこともなければ、命に危険が及ばぬよう、交渉しようというそぶりも見せません。けれども、このような経験に真っ向から向き合う勇気を持つには、もう少し時を遡らねばならないでしょう。彼らの両親が次のように言ったとは思いません。「いつかお前たちは恐ろしい王の前に引き出されて、そこには火の燃える炉があり、自分の命か偶像を拝むかの選択を迫られるだろう。その時には、炉を選ぶことを覚えておくように。」
そうではなく、両親はむしろこの少年たちに、大体こんな感じのことを言ったのではないでしょうか。「心と精神と思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。」[6] そして、「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。」[7]
シャデラク、メシャク、アベデネゴの両親が、自分の息子に将来何が起こるかや、勇敢に行動すべき時がいつ、どのように訪れるかを知っていたとは思えませんが、彼らが自分たちにコントロールできると知っていたものが一つありました。それは、子どもたちの心に何を蓄えるかです。箴言4:23はこの概念を、うまくもこう解説しています。「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」 英語ニュー・リビング訳では、同じ節が次のように訳されています。「何よりも、あなたの心を守れ。心は人生の行く末を左右するからだ。」
人は誰でも、感動的なヒーローの話が大好きです。中でも私の大のお気に入りは、マントをまとった善良な人間が登場する話です。問題は、人は実生活上で、自分がヒーローとして大活躍できるような機会があるかどうかを、決めることはできないということです。誰かを助けたり、窮地から抜け出すことができるかどうかを、自分で決めることはできません。けれども、心に何を蓄えるかは、自分でコントロールできます。それが、勇気を要する日常的な出来事と同様、日常を超えた重大な物事が起こった時のために、自らを備える方法なのです。—T・M [8]
2017年7月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。