聖霊とメシア
The Holy Spirit and the Messiah
September 14, 2017
ピーター・アムステルダム
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旧約聖書では全般的に言って、主の霊は特定の人に、また一時的にのみ、下ってきて交わりを持たれました。しかし、神が御霊をすべての人の上に豊かに注がれるときが来ることが預言されていました。[1]
旧約聖書には、神の霊に大いに満たされ、神の名によって素晴らしいことを成すという、来るべきメシアに関する預言も含まれています。ユダヤ人は、このメシアが神の御子であるとは考えていませんでした。三位一体の神という概念がなかったからです。メシアは油注がれた(塗油された)王であり、神の霊によって大いに力を与えられる、と理解していたのです。
メシアに関しては、イザヤ書にこのように書かれています。「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」[2]
この預言は、メシアが出るのはエッサイの息子であるダビデの家系からであることや、神の霊がメシアの上に「とどまる」ことを告げています。メシアには知恵、悟り、深慮、知識、神への恐れが授けられます。イザヤはメシアにつき、さらに別の預言をしており、そこでもまた、神の霊がメシアの上に授けられることを宣言しています。[3]
イザヤ書ではさらにその後に、神の霊が大いにメシアに臨むこと、メシアが油注がれて、主の霊の力によって主の御仕事を行うことが預言されています。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」[4]
これらの預言は、約束されたメシアであるイエスの生涯において成就しました。4つの福音書すべてが、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受け、宣教をお始めになる際に御霊に満たされたことを告げています。[5]
後になってからイエスのことをたずねられたときに、バプテスマのヨハネはこのように話しています。「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。」[6]
イエスが宣教を開始されるにあたり、聖霊は限りなくイエスに与えられ、いつまでもイエスのもとにとどまられたのです。それからすぐ、御霊はイエスを荒野へと導かれました。悪魔はそこでイエスを打ち負かそうとするのですが、それは失敗しました。[7] 悪魔の試みに打ち勝ち、イエスは御霊の力にあふれて宣教を開始されました。[8]
イエスがお育ちになったナザレという村に行った際、会堂で聖書を朗読する役に選ばれました。そこでイエスが読まれた箇所はイザヤ書からで、メシアの仕事についてのものでした。イエスは読み終わると、それはご自身のことを語っているのだと表明されました。イエスこそが、主の霊が下ったメシアであると。
「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」[9]
イエスは、ご自身の宣教が開始したこと、これから福音を告げ知らせ、とらわれている人に解放をもたらし、いやしを与え、圧迫されている人を自由にすること、そしてご自身の上にいる神の霊によってそれを行うことを話しておられたのです。イエスの上に臨んだ聖霊は、イエスの宣教において大切な役割を果たし、イエスを導き案内して、力を与えられました。
イエスは昇天の直前に、「父が約束されたもの」 つまり神の力である聖霊を送って下さること、またその力を上から授けられるまで、エルサレムで待っていなくてはいけないことを、弟子たちに語られました。[10]
イエスを導き案内し、力を与えてこられた聖霊が、同じことをイエスの弟子たちにもされようとしています。イエスはご自身が世を去るときのために弟子たちを備えようとして、聖霊が彼らのところに来るためにはご自身は去らなければいけないこと、去っていくならば御霊が下ることを告げておられます。イエスは言われました。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」[11]
イエスは、まず昇天して父のもとへ戻り、栄光を受ける必要があり、その後に慰め主であり助け主である聖霊が来ることができる、と言われたのです。
イエスは弟子たちとおよそ3年半、共に過ごされました。弟子たちはイエスと一緒に旅をして生活し、イエスから学び、イエスが群衆に説教をしたり教えたりしておられたことを聞きました。病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出しなさったところを見ていました。イエスから個人的な指導を受け、また、イエスが他の人たち、たとえば貧しい人や金持ち、社会ののけ者や宗教的な人とどのように交流されたかをよく見ていました。イエスが逮捕され、十字架につけられたところも目にしました。イエスは確かに死んでおられたのに、生き返って階上の部屋で自分たちの目の前に立っておられました。そして、イエスが去って行かれる時が来たのです。彼らにとって多くの意味を持つ存在であった方が、去って行こうとしておられます。イエスは、父にお願いして、「別の」慰め主、助け主を送っていただく、と弟子たちに告げられました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」[12]
この節で「助け主」や「慰め主」と訳されているギリシャ語の言葉は「パラクレートス」で、その定義は、かたわらに呼ばれた人、助力すること、助け手、助力者、助手であり、他にも裁判官の前でだれかの言い分を申し立てる、弁護を必要とする人の相談相手、弁護者、擁護者という意味があります。[日本語訳聖書では、「助け主」あるいは「弁護者」と訳されています。]
イエスは、父が弟子たちに「別の」慰め主を与えるとおっしゃっているので、弟子たちには今すでにだれかがいるという意味になります。彼らに今いる助け主、慰め主、相談相手、擁護者であるイエスが去り行こうとしておられ、その代わりに父が聖霊を送って下さるのです。弟子たちにとって、それまでイエスがどのような存在であったか、またこれから聖霊がどのような存在となるのかは、とても似ています。
- 両者とも、父のもとからこの世に「来た」または「つかわされた」とあります。[13]
- 両者とも「聖~」と呼ばれ、特徴は「真理」です。[14]
- 両者とも、教えを与えてくださいます。[15]
- イエスは世の誤りを明らかにして悟らせるために来られましたが、多くの人はイエスを受け入れませんでした。それは、聖霊についても同様でした。[16]
イエスは弟子たちにとって助け主また慰め主であり、他にも教師、真理を語る者、証人でしたが、この世を去られた後は、ご自身がされたのと同じことをする別の慰め主を、父とご一緒になってこの世に送って下さると言われました。この慰め主は、弟子たちが宣教をするにあたり、大いに油注ぎをしてくださるということでした。そして、実際その通りになったのです。
初版は2013年5月。2017年9月に改訂・再版。
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。
1 ヨエル 2:28–29.
2 イザヤ 11:1–2.
3 イザヤ 42:1.
4 イザヤ 61:1–3.
5 参照:マタイ 3:13–17; マルコ 1:9–11; ルカ 3:21–22; ヨハネ 1:32–34.
6 ヨハネ 3:34–35.
7 ルカ 4:1–2.
8 ルカ 4:14–15.
9 ルカ 4:20–21.
10 ルカ 24:49.
11 ヨハネ 16:7.
12 ヨハネ 14:16.
13 ヨハネ 5:43, 16:28, 18:37; ヨハネ 14:26, 15:26, 16:13.
14 ヨハネ 6:69, 14:26, 6, 16–17.
15 ヨハネ 13:13; 14:26.
16 ヨハネ 1:11–12; ヨハネ 16:7–11, ヨハネ 14:17.