賛美の本質
A Heart of Worship
June 4, 2018
ピーター・アムステルダム
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「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。—黙示録 4:11
イエスは、井戸ばたでサマリヤ人女性と話していた時に、こうおっしゃいました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」[1]
神は、霊とまこととをもって父を礼拝する者たちを求めておられます。私たちは神を愛し、神に喜んでいただきたいので、霊とまこことをもって神を礼拝するよう励むべきです。神はそう願っておられるからです。しかしどうすれば、霊とまことととをもって正しく礼拝できるのでしょう。
英語でworship(礼拝)という言葉は、昔のアングロサクソン語(古英語)である、「weorthscype」から来ており、これは、価値がある、尊い、ほまれがあるという意味で、それが後に「worthship」、さらに現在の「worship」となりました。神を礼拝するというのは、神にふさわしい価値を帰(き)すということであり、神の価値を認め、表し、讃えるということです。ドナルド・ホイットニーはそれをこのように述べています。「聖なる全能の神、宇宙の創造主であり保護主であり、裁き主であられる神のありさまを私たちは述べなければならず、神は私たちが捧げることのできるすべての価値と誉れにふさわしい方であられると同時に、それをはるかに超える方なのです。」
神の価値、そして礼拝の根拠は、神の性質と性格、属性、神がどういった方であるかに見いだされます。神は目に見えるものと見えないものすべてを造られた方です。全知全能であり、変わることがなく、無限で、永遠であり、どこにでも存在しておられます。神は知恵であり、真理であり、忠実さであり、慈しみ、愛、憐れみ、恵み、忍耐、聖、義、公正、またそれ以上のものであられます。私たちは神の姿に似せて造られ、このような特質を多少持ってはいるものの、神こそが、その特質そのものです。すべて存在しているものを無から造り出された方なので、私たちと比べると無限に偉大であり、礼拝されるにふさわしい方なのです。
神は創造主であると同時に、あがない主でもあられます。神は、私たち罪人が神と和解するための道を開いて下さいました。神はイエスの犠牲を通して、イエスをあがない主として信じ、受け入れるすべての人に救いをもたらして下さったのです。神は私たちを罪と死からあがなわれます。ですから、神は賛美にふさわしい方なのです。「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」[2]
私たちが神を礼拝するのは、神は礼拝するにふさわしい方だからであり、神は存在する何よりも、そして誰よりもはるかに偉大な方だからです。神をもっとよく知り、神の愛と力、神が私たちにして下さったことや、絶えずして下さっていることを理解すると、私たちは、神を礼拝するという反応をすべきことが、はっきりと理解できるようになります。神の言葉は、私たちは神の栄光のために造られたと告げています。[3] だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきなのです。[4] 私たちの人生の究極の目的とは、私たちが造られた目的を果たすこと、つまり神に栄光を捧げることなのです。
旧約聖書で、普通「礼拝する」と訳されているヘブル語の言葉は、「シャーハー」(shachah)で、これは「おじぎをする」、「目上の人に対してひれ伏して敬意を払う」という意味です。新約聖書で使われている「プロスクネオ」(proskuneo)というギリシャ語の言葉は、「ひざまずき、地面に額をつけて深い敬意を表す」、「尊敬の念を表すために、ひざまずいたりひれ伏したりして、敬意を表したり、嘆願したりすること」という意味です。それは、神に対する私たちの心の中の態度や敬意を表しています。[5] それは、神への服従と降伏を表すことであり、また、神の偉大さと神聖さを認識して、神が私たちの人生を支配される方であることを認めていることを表しています。
礼拝とは、御言葉を通して私たちに神の御旨と目的を示し、父、子、聖霊の三位一体の神としてご自身を現された方に対する、当然の反応です。それは、イエスを通して神との関係に導かれたことに対して、また、イエスの愛と犠牲を通して受け取った救いの贈り物に対して、私たちが取るべき反応なのです。
旧約聖書の時代には、神への礼拝は、おもに犠牲を捧げることを中心としていました。人が罪のゆるしを受け取ったり、神への感謝と賛美を表したりするための手段として、動物を犠牲として捧げたのです。モーセの時代以降、これらの犠牲は幕屋で捧げられ、後に、エルサレムの神殿で捧げられるようになりました。神がご自身の民の間に宿られる場所ということです。ほとんどの人は神殿の外庭までしか入ることが許されませんでしたが、祭司は聖所と呼ばれる前庭に入ることができました。けれども、神殿の中でも、神の臨在のある一番奥の部屋である至聖所に入れるのは大祭司だけで、大祭司であってもそこに入るのが許されるのは、一年に一度だけでした。
新約聖書は、イエスが「一つの永遠のいけにえ」としてご自身の命を捨てて下さった[6]時から、犠牲(いけにえ)の制度はもはや必要なくなった、ゆえに、罪のゆるしや神との和解のためにこれ以上犠牲を捧げる必要はないと告げています。イエスの犠牲的な死により、私たちは今、祈りや賛美や礼拝によって、直接神の御前に行くことができるのです。私たち信者は「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民」であって、それは、「それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるため」なのです。[7]
イエスがサマリヤの女性に説明されたように、礼拝はもはや、当時のように決まった場所に制限されてはおらず、今では神と礼拝する者との間の関係、イエスの死とよみがえりを通して可能になった関係に基づいています。礼拝のために神の宿られる場所という神殿に行く必要は、もうありません。イエスの死とよみがえりがもたらしてくれた救いを通して、イエスが神と人間の接点となる時が来たのです。
神は霊とまこととをもって礼拝する者を求めておられると言うことで、イエスは、真の礼拝は、単に口から出る言葉以上のものであることを表されました。礼拝とは、私たちが神と心を通い合わせることによって、私たちの霊と神の御霊とがつながることであり、また、御言葉でご自身を現されているとおりの素晴らしい方として神を礼拝することです。
主を礼拝する時、私たちは尊敬と崇敬と畏敬の念を持って礼拝します。「感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、礼拝しよう。」[8]
主を恐れることについて語っている聖書の節はたくさんあります。「恐れ・畏れ」と訳されているヘブル語の言葉には、崇敬、畏敬、敬意、尊敬といった意味があります。「主を恐れる」ことをこういった意味で理解する時、私たちは、主に対して畏敬の念を抱いて崇敬する人たちに約束された祝福をつかむことができます。主はそのような人を好み[9] 、憐れみを示し[10] 、祝福(恵み)を与え[11] 、親しくし[12]、いつまでも愛(いつくしみ)を示して下さいます。
「主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び」[13]
初版は2014年5月 2018年6月に改訂・再版
朗読:ジョン・マーク