感謝に満ちた心
A Grateful Heart
November 27, 2014
感謝祭の引用文集
オーディオ・ダウンロード(英語) (8.4MB)
わたしは歌をもって神の名をほめたたえ、感謝をもって神をあがめます。-詩篇 69:30
*
毎日が感謝祭、つまり数多くの祝福を神に感謝する時であるべきです。毎日の一瞬一瞬を感謝し、それゆえに絶えず神を賛美し、感謝を捧げているべきなのです。心にクリスマスの精神があるなら、毎日をクリスマスのように過ごすことができます。毎日が、全部の祝日を合わせたような一日になり得るのです。心の中でそのように感じ、行動を通してそのように生きるならば。-デービッド・ブラント・バーグ
*
ある感謝祭の日のことです。私は当時10歳で、市立病院の福祉病棟に入院しており、大掛かりな整形外科手術を翌日に控えていました。手術の後は何ヶ月も外に出られず、痛みに耐えながら回復を待つしかないのだということが自分にはわかっていました。父はすでに亡くなっており、母と二人きり、小さなアパートで生活保護を受けて暮らしていたのですが、母はその日、私を見舞うこともできませんでした。
時間がたつにつれ、孤独感や絶望感、そして恐れに打ちのめされてきました。母はひとりで家におり、私のことを心配しているに違いありません。そばにいてくれる人も一緒に食事をする人もおらず、感謝祭のごちそうを買うお金だってないのです。
思わず涙がこみ上げてきて、枕の下に頭をうずめると、その上から毛布をかぶり、声を立てずに泣き始めました。あまりにつらい気持ちで泣いていたので、からだ中に痛みが走りました。
すすり泣く声を聞いた若い見習い看護婦がやってきて毛布を持ち上げ、涙をぬぐってくれました。そして、自分もその日は仕事で家族と一緒にいられないことで、とても寂しい思いをしているのだと言いました。そして、一緒に夕食を食べてくれないかと言ってくれたのです。それから、トレーを二つ持ってきて、そこには七面鳥やマッシュポテト、クランベリーソース、それにデザートのアイスクリームがのっていました。彼女は私に話しかけて、不安を鎮めようとしてくれました。勤務時間は4時までだったのに、その後も残って、夜の11時頃まで一緒にいてくれたのです。一緒にゲームをしたり、話したりして、私が寝入るまで、ずっとそばに付いていてくれました。
10歳だったあの時から、感謝祭が幾度もめぐってきましたが、その度にいつも必ず、あの特別な感謝祭のことを思い出します。絶望や恐怖心や孤独感のこと、そしてそれを耐えられる程に和らげてくれた、見知らぬ人の温かさや優しさのことを。—マーティン・ギンスバーグ [1]
*
感謝祭の日のある新聞の社説に、受け持ちの小学1年生のクラスに、感謝しているものの絵を描くよう求めた、ある学校教師のことが書かれていました。彼女は、近所の貧しい地域で暮らす子供たちには、実際に感謝できるものなどほとんどないけれど、それでも大半の子たちは、七面鳥や、ごちそうが載った食卓の絵を書くだろうと考えていました。しかし、ダグラス君が提出した絵を見て、教師は驚きました。そこには簡単な子どもっぽい絵で、手が描かれていたのです。
一体誰の手でしょう? クラスはその難解な絵に、心を奪われました。「きっと、私たちに食べ物を下さる神様の手だわ」と一人の子供が言いました。
「農夫のだよ。七面鳥を育ててくれるんだから。」 別の子が言いました。
他の子どもたちがまだ描いている間に、教師はついにダグラス君の机に身をかがめて、それが誰の手なのかを尋ねました。「先生の手です。」 少年は口ごもるように、そう答えました。
教師は、休み時間になると、寂しそうで小柄なダグラス君の手をよく握っていたことを思い出しました。どの子どもたちにもよくそうしていたのですが、それはダグラス君にとって、とても大切なことでした。おそらくこれは、全員にとっての感謝祭だったのでしょう。もらった物質的な物にではなく、たとえどんなにささやかな形であっても、他の人に与えることのできる機会に感謝するという意味での。-作者不詳
*
感謝祭の日が来ると、私たちは習慣から、喜んで感謝の気持ちを持とうとします。しかし、お祝い気分のしない、ごく普通の他の日々には、どうしているでしょうか?
私はピルグリム・ファーザーズの満足感をもった人生の捉え方が好きです。彼らは自分の感情や周りの状況次第で、感謝の心を持ったり、感謝を捧げたりするかどうかを決めたりはしませんでした。彼らは神が物事を支配しておられると信じ、それを「摂理」と呼びました。そしてこのような信念から当然引き出される結論に従い、「私たちの益になるよう、神がこれを許されたのだ」という考え方によって、数々の難局に立ち向かったのです。真実にして聖なる神に寄り頼むのは良いことであり、たとえ彼らにとって不利な物事が多く起こっても、常にそれよりもずっと多くの感謝すべきことがあるのだと信じることを、彼らは選びました。そして、そうするだけの理由があったのです。
感謝の心を育むことは、信仰を強めるために不可欠です。ジョン・パイパーもその著書『A Godward Life』(敬神的な生き方)で述べました。「自分の持っているものや、持ちたいと望んでいるあらゆるものが、ことごとく神にかかっていることを信じないなら、感謝と信仰の泉そのものが涸れ果ててしまいます。」
今日、自分自身や周りの状況から目を離し、感謝して神の性質やその御わざを認めることを選びましょう。自分には不平を鳴らす権利などないと心に決め、むしろ深く根付いた感謝の喜びを、心に抱きましょう…すべてのことについて感謝するのです。
感謝に満ちた心は、神を喜ばせます。-バーバラ・レイニー [2]
*
主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。—詩篇 107:1
*
感謝祭になると、私たちは自分の持っている祝福に思いを向け、神の恵みゆえに感謝を捧げるようになります。それは確かに良いことですが、最善ではありません。最善のこととは、感謝祭(Thanksgiving)を感謝に満ちた生き方(Thanks-living)に変えることです。どんな日にも、どんな状況下にあっても、神は私たちに感謝してほしいのです。なぜでしょうか?
1)たとえどんなに問題が深刻で、悲惨な状況下にあっても、感謝に満ちた生き方をするなら、自分は神を信頼しているのだと神に知らせることになります。感謝は信仰の裏返しなのです。
2)感謝に満ちた生き方は、あなたの表情や気質を変えます。落ち込んでがっかりし、行く先々に憂うつな雰囲気や絶望感をふりまくのはやめて、むしろ主の喜びを輝かせるようになります。キリストのための最高の証し人とは、その唇に歌と感謝を携えて、人生の試練に立ち向かっている人です。
3)感謝に満ちた生き方は、神が働かれるための扉を開きます。神は私たちがつぶやき、不平を鳴らすのが大嫌いです…しかし賛美し感謝を捧げるなら、大いに喜んでくださいます。私たちが神への感謝に満ちた人生を生き始めるなら、神は最もつらい試練や、信仰が試みられるような状況の真っ只中においても、働き始められます。パウロとシラスが鞭打たれ、投獄されたとき…そこで彼らは主への賛美を歌いました。すると、彼らが歌い終わった時、主が牢屋に地震を起こされ、獄の扉が開きました。…最も深く暗い穴の中にあってさえも、私たちが神に感謝し賛美することを選ぶ時、神は私たちのために奇跡を起こして下さるのです。
私は自分に投げかけるのと同じチャレンジを、皆さんにも投げかけます。すべてのことについて感謝できるよう、自身を鍛錬しましょう。山を主に感謝し…谷をもまた感謝するのです。主は皆さんから感謝や賛美を受けるにふさわしいお方なのですから。―ジェフ・スクリーブ [3]
2014年11月にアンカーに掲載。朗読:デブラ・リー。音楽:マイケル・ドーリー。