最後までやり抜く
Going the Distance
February 21, 2024
デービッド・ボリック
「人生はマラソンであって短距離走ではない」という見解は、多くの人にとって、決まり文句としての地位を獲得しています。そう言いながら、自分の黄金期がそれほど輝かしいものでなかったときに、それを耐え抜かなければならないという現実を、苦い顔で受け入れるのです。私は、そのような良くない事態から良いものを生み出してみたいと思います。
マラソン選手なら誰でも、最後の数マイルで、子供と大人、うわべだけの偽者と本物のプロが分かれると言うでしょう。レースのおよそ4分の3を走り終えると、ほとんどの選手はエネルギーを使い果たし、その時点を「壁にぶち当たっている」と表現します。ゴール前の最終段階に入ると、急激に走りが辛くなるのは免れず、その時点でゲームオーバーとなる人が多いのです。それはまったく心理的、経験的なものになり得ます。なぜなら、基本的に、ゴールにたどり着くというのは、結局は意志力と気力で乗り越えるかどうかなのです。ちょうど、「われらのよわいは七十年」(最初の4分の3)「にすぎません。あるいは健やかであっても八十年」(ゴール前の最終段階)「でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって」(詩篇90:10)という一節のようです。
これまで走ってきたマラソンを振り返りつつ、私が好きな誇張表現で言うなら、エベレスト登山が思い浮かびました。上に行けば行くほど空気が薄くなるのです。進み続けるには、ペースを落とし、歯を食いしばり、意志の力にしがみつくしかなかったこともありました。
人生の晩年は、私たちの多くにとってマラソンの長いラストスパートによく似ています(結婚や起業の最初の数年間、期末試験の追い込み、家賃の支払いなどにも同じことが言えるのではないでしょうか)。年を重ねた私たちだけでなく、世の中全体がそうなっているのではないかと思うこともあります。日常生活のペースはどんどん速くなっているのに、その一瞬の中にある実生活の量はどんどん減っています。社会は飢餓療法中で、ガス欠状態で動いているように思えます。
ペースを落とす人にも、ペースを上げる人にも両方、同じ重圧がかかります。霊的生活の典型的な敵である、世俗、肉、悪魔が、「神のいのちから[私たちを]遠く離」そうとして(エペソ4:18)、私たち全員を引っ張るからです。いずれにせよ、「兄弟たちよ。… 時は縮まっている。… なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(1コリント7:29、31)。そして、「わたしたちは、[わたしたち]をつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる」(ヨハネ9:4)。これを実行するのは大変なことであり、しばしば消耗させられるものです。
私たちは通常、その壁にぶつかって、「[主の]力は弱いところに完全にあらわれる」」(2コリント12:9)ことを経験し、それ以上先に進めないことに気づくまでは、自分がどれほど弱い存在なのかが理解できません。私たちは、「穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)、「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」(出エジプト14:14)、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)という奥深い真理を実践することを学ぶべきです。
私は比喩を使い過ぎているかもしれませんが、引き続き長距離走の例えを使っていこうと思います。なぜなら、筆舌に尽くしがたいものを表現しようとするときには、どんな比較も不十分であるものの、いくつか参考になる類似点はあるからです。
ほとんどのランナーは炭水化物からエネルギーを得ます。炭水化物はかなり素早く分解されてグリコーゲンに変わり、それが通常は最初に体の燃料となるからです。しかし、人間の体が蓄えられるグリコーゲンの量は限られており、マラソン選手が適切な量の炭水化物を摂取し、途中で補給しない限り、長時間の大会では「ガス欠で走る」危険性があるのです。
しかし、運動中により効率的に脂肪を使うように体を鍛えることは可能です。これは 「ファットアダプテーション」または「メタボリックフレキシビリティ」として知られています。健康的な脂肪が多く、炭水化物が少ない食事を摂り、定期的に持久的運動をすることで、体は運動中に脂肪をよりよくエネルギー源として使うことができるようになり、体内のグリコーゲン貯蔵量を枯渇させることなく、マラソンのような長時間の運動でも疲労を遅らせることができるのです。
体を別の燃料補給システムに適応させるには、たゆまぬ賢明な努力が必要なのと同じように、いわば別の霊的ギアにシフトするには、同様の十分な努力と忍耐が必要なのです。長年の間、必要なだけエネルギーを得、障害を力強く乗り越え、かなり素早く結果を出してきたのですから、穏やかにして、主に戦いを委ねることを学ぶのは大きな変化です。個人的には、「つとめて落ち着いた生活を」(1テサロニケ4:11)するのは、最も激しいマラソン・トレーニングと同じくらい難しいことだと分かりました。しかし、粘り強く続けるうちに、気が遠くなるほどに広大な領域が広がっていることを、おぼろげながら垣間見られるようになりました。これまでの人生はまさに短距離走であり、本当の「わたしたちの参加すべき競走」(ヘブル12:1)であるマラソンのためのウォーミングアップにすぎなかったのです。
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主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。—列王上19:11
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。—イザヤ40:28–31
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。—2コリント4:16