神の時刻表と私たちの時刻表
God’s Timetable Versus Ours
June 5, 2018
引用文集
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主は信仰や信頼や、耐久力や忍耐や辛抱強さといった資質を、高く評価されます。たとえ多少時間がかかるか、粘り強さを要するとしても、それらの資質を身に着け、育むだけの価値があるとお考えなのです。その真理を認識するか、もっと頻繁に思い出すなら、より容易にテストに合格し、何かが思い通りに運ばないか、起きてほしいタイミングで起きてくれない時にも信頼し、賛美に満ちていられるでしょう。また、もっと度々主の御手のわざを認め、御心が成就された時、よりはっきりとそれに気づくようになるでしょう。
私たちはしばしば、手っ取り早い解決策や、即座の答を探し求めています。そしてそれが得られないとがっかりし、自分が主の御心から外れているに違いないと感じたり、願いを叶えることは主の御心ではないのだとか、どこかがおかしいと考えて、希望を失いそうになるのです。多くの場合、別にどこもおかしくありません。単に主が、私たちの時刻表ではなく、ご自分の時刻表に沿って、ことを進めておられるというだけのことです。
もしかすると主は、その状況の他の要因に働きかけるために、時間を必要とされているのかもしれません。とりわけ、そこに他の人々が関わっている場合には。主が他の人の人生に働きかける際、大抵の場合は、私たちの人生に働きかける際と同じように、せかすことなく忍耐をもって、正しい決断を下すよう励ますことを選ばれます。時として主は、私たちが望むタイミングで迅速な答をもたらすために、奇跡的に物事を解決することよりも、たとえ時間がかかっても、人々に自分で正しい決断を下させることを重んじられるのです。—マリア・フォンテーン
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わが子よ、待つのがどれだけつらいかはわかる。わたしがもっと迅速に動いて、あなたの祈りに即座に答えることを切望しているね。物事が思うように素早く運んでいないと感じて苛立ち、悩む時には、わたしを賛美するために時間を割きなさい。賛美は、あなたが感じている不安を和らげる助けになるだろう。わたしの前で静まり、わたしが行動に出るのを辛抱強く待っていなさい。わたしはあなたのすべての切望や、願いを知っている。何もかも自分で背負い込んではいけない。わたしはアルパであり、オメガだ。あなたのために、絶好のタイミングで動いてあげよう。あなたを形成し、変えるために遅延を用いていることで、わたしに感謝しなさい。何かを長く待てば待つほど、もっとそれを感謝するようになるというのは、よくあることだ。遅延はあなたの人生から、衝動的な態度を取り除いてくれる。わたしのタイミングへの信頼を示しなさい。あなたや配偶者の人生において、また、子どもや友人の人生において、わたしが時間どおりに事をなすと信じるようにしなさい。わたしを崇めるなら、あなたを強めて、ゆったりと落ち着いて待っていられるようにしてあげよう。—イエス [1]
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農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。—ヤコブ 5:7
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神は、自然という素晴らしい絵本によって、あなたに待つことを教えておられます。種を蒔き、忍耐強い空の下で、作物がゆっくりと熟すのを待つことを。神があなたに、完璧なものや、完成されたものを与えられることはありません。むしろ徐々に成長し、熟し、実を結ぶものの種を蒔かれます。最初につぼみを、そして満開の花を、その後完璧な実を与えられるのです。「何事も、忍耐して待つ者に訪れる」ということわざが真実であることは、これまで幾度となく証明されています。
あなたのリンゴの木から花を摘まないでおきましょう。そうすればそれは、時が来ればリンゴへと育つのです。—ヒュー・マクミラン [2]
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今日すべての望みが叶わなくても、
忍耐強くありなさい。
明日の日の出と共に
より幸せな日が始まるかもしれない。
—作者不詳
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私たちは、自分たちが目標を見失っているように見える理由を、常に理解できるわけではありません。何時間も何日も、さらには何週間も、留まることを知らない川の流れのように、片付けるべき仕事があるように思われます。そしてある朝目を覚まして、途方に暮れるのです。「私たちはどこに向かっているのだろう?」と。視界がぼやけている時に、進み続けるのは難しいものです。
解決策はそこにあり、私たちを待っています。何よりも最初に、イエスの脇に寄りましょう。主に思いを集中させるのです。忍耐していてください。即座に答えが与えられるとは限りませんが、祈りと瞑想の内に休息するその静かなひとときに、主は私たちの展望を新たにして下さるでしょう。—マージ・バンクス
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私は人生という旅において前進を続けるつもりですが、そんな時、物事が突然停滞してしまいます。‥‥私は自分が、あのことわざに出てくる「待機の谷」に留まっていることに気づきます。明白な理由も、どのくらい長くそこにいなければならないのかもわからないと、つい苛立ってしまい、自分勝手にも、即座の答を欲しがって、すぐこのように尋ねてしまいます。「なぜですか、主よ? 私にはわかりません。」
そのような状況や、人生の困難な時期においてこそ、この節の真理を思い出さなければなりません。「われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。」[3]
私の魂がその谷で待っている時、私は一人ではありません。そこには神がおられ、私を助け、盾でかばい、守って下さいます。
私の魂がその谷で待っている時、私は自分の焦燥ではなく、神の喜びを感じます。神の聖なる御名がささやかれるのを聞くだけで、心が喜びにあふれるのです。
私の魂がその谷で待っている間、私は過去の神の忠実さを思い出すことによって、神の恵み深さに信頼します。
私の魂がその谷で待っている間、私は周りのあらゆる状況にもかかわらず、希望を抱きます。神の決して失望させない愛が、常に私に注がれているからです。
この貴重な教訓を学ぶまで、長いことかかりました。私は一人で人生を旅するよりも、むしろイエスと共に「待機の谷」に留まることを望みます。私の魂が真の休息を見いだすのは、神の御前においてだけだからです。神のいますところ‥‥そこが私の居たい場所です。自分がそこに留まるべき理由を、全部知ることは決してないかもしれませんが、神がそばにいて下さるなら、そこに目的があるとわかるのです。—リア・ディパスカル [4]
2018年6月にアンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
音楽:マイケル・ドーリー