「雨の日」のための神の備え
God’s Rainy-Day Fund
July 1, 2014
引用文集
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モーセは死ぬ前に、諸部族に祝福の言葉を述べましたが、アセル族に宛てられた祝福の一つに、このようなものがありました。「あなたの靴は鉄・・・」[1] 地理的説明を聞けば、その意味は明らかです。アセル族に割り当てられた土地は険しい丘陵地でした。木と革でできた通常のサンダルでは、ごつごつとした固い岩で、擦り切れてしまったことでしょう。特別な靴が必要だったのです。そこで「あなたの靴は鉄」という約束が与えられたのです。…
昔の時代に与えられたこの保証は、ある重要なことを示唆しています。その一つは、人生の旅の終点に至るまでに、私たちが険しい道を通ることがあるということです。そうでなければ、鉄の靴など必要でしょうか? 花畑を抜ける道なら、ベルベットのスリッパでもいいはずです。柔らかな草原を歩くのに、靴底が鉄でできた靴を履きたがる人はいません。…アセル族がその土地を割り当てられたのは偶然ではなく、神ご自身による選択だったのです。同様に、神の子どもであれば誰でも、住まう場所や条件や環境が、偶然に定まることはありません。私たちの生涯は神の御手の内にあるのですから、逆境や困難が誰に降りかかったとしても、一人一人が人生において最大限に成長するために、神がそう定められたという事実を、疑うべきではないのです。…
鉄の靴の約束は、花畑を抜ける道を通る人々にではなく、険しい道を通る人々だけに向けられています。ここでもう一つ示唆しているものは、人生においてある種の過酷な時期を通っている人々全員を慰めてくれます。その様な人たちには、特別な恩恵が約束されているのです。神は険しい道を通っているがゆえに、彼らに供給されるでしょう。彼らは、険しさや厳しさがなければ受けられなかったような祝福を、神から授かるのです。同じ節の残りの部分では、ヘブル語の対句法により、ただの言葉のあやではない、同じ約束を与えています。「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう。」[2] 安心しなさい、あなたの道が私の道よりも険しいなら、あなたは私よりも多くの助けを受けるのですから。地上の需要と天の恵みの間には、最も緊密な関係があるのです。苦闘の日々には、平穏で静かな日々にまさる恵みが下ります。夜が来ると星が輝きますが、それは太陽が沈まない限り見えなかったでしょう。悲しみは、喜んでいる時には決して得られないような慰めをもたらします。そして険しい道には、鉄の靴が備えられているのです。
この昔の約束には、別のことも示唆されています。あらゆる経験における神の祝福は、経験そのものに包まれており、前もって与えられることはありません。鉄の靴は、険しい道に差し掛かるまで与えられないのです。それまでは必要ないのですから。
将来について思い煩っている人が、非常に大勢います。起こると予想される特定の物事をどう切り抜ければいいのかと、不安げに問いかけ、心を悩ませているのです。聖書には、将来にしか必要とされないものを供給するなどという約束は一つもないことを、私たちはいい加減に学んだ方がいいでしょう。神は明日戦うための力を、今日私たちに与えられることはありません。私たちは実際に戦闘が始まった時に、力を受け取るのです。「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう。」
中には次のような質問をして、愚かしくも自分を試みる人がいます。「自分はつらい別れを耐え忍ぶことが出来るのだろうか? 自分にとって一番大切な宝を取り去られてもなお、神に服従して頭を垂れるほど十分な恵みを、私は持っているだろうか? あるいは、恐れず死を迎えることができるだろうか?」 それらは愚かな疑問です。試練がない時に試練に立ち向かうための恵みを与えるという約束など、与えられていないからです。担うべき重荷がない時に、重荷を担うための力を与えるという保証はありません。耐え忍ぶべき誘惑がない時に、誘惑を耐え忍ぶための助けを送るなどとは、約束されていません。人がまだ当分は死にそうになく、生きることを務めとしている時に、死に際しての恵みを与えるなどという約束は、どこにもありません。
これをわかりやすく説明してくれる、ある難破した船の話があります。船員と乗客は壊れた船を離れて、救命ボートに乗り込みました。海は荒れており、大勢を乗せた重いボートを守るためには、それを漕ぎ、操るにあたって細心の注意を要しました。波が通常の状態なら簡単に乗り切ることができたでしょうが、荒れ狂う大海原ではそうはいきません。夜が近づいており、暗くなってこれらの恐ろしい波が見えなくなったら、どうすればいいのかと案じつつ、皆の心は沈みました。しかし暗くなると、彼らは自分たちが、リン光を放する水の上に浮かんでおり、危険な波が近づくたびに、光で縁取られた波頭の一つ一つが、まるで昼間のようにはっきりと見えることがわかって、大喜びしたのです。
ですから、人生で味わう数々の恐ろしい経験は、それ自体に危険や恐怖を取り去ってくれる光を携えているのです。悲しみの夜には、慰めの明かりがともります。弱っている時には、秘められた力が発揮されます。苦い泉のほとりには、その枝が水を甘くしてくれる木が育ちます。収穫物もなく飢え渇く荒野で、日々のマナが与えられます。人には耐え難いほどの重荷が心にのしかかるゲツセマネでは、天使が現れ、勝利する力を与えてくれます。…
ここで学ぶべき教訓とは、私たちはキリストなしには、人生の長い旅を無事切り抜けることができないということです。しかし、キリストがおられるなら、私たちは今後の年月に何が起ころうとも、備えができていることでしょう。―J・R・ミラー [3]
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私たちは「雨の日のための避難場所」(万一の時の備え)とは、屋根のある建物、退職時の有価証券、預金口座、あるは少なくとも社会保障を指すものと考えがちです。しかし、物質的なものは皆[いずれ]なくなってしまいます。旧約聖書に登場するヨブは、裸でこの世に生まれてきたのだから、裸で世を去ろう、という意味のことを言いました。確かに聖書は、私たちが死ぬ時には、来世に何も持って行けないと告げています。
人々が人生において切実に望む3つのもの、つまり幸せと自由と心の安らぎについて、素晴らしい原理があります。…私たちが幸運にもそれらを持っている場合、これら3つはある種の避難場所でもあるのです。そして私たちが生きる人生や、友人になる人たちもまた、避難場所になり得ます。
わたしの父は[私に]、避難場所を作る必要があると話してくれましたが、それがどんな避難場所であるかは、決して教えてくれませんでした。私が自分でそれを見いだすに任せたのです。しかし、父は私に進むべき正しい方向を示してくれました。
父が「雨の日に備えて避難場所を作っておきなさい」と言った時、それがいかなる形態の地上の避難場所を意味していたとも思えません。父はもっと永続的な避難場所について話していたのではないでしょうか。具体的に言うと、それは「天に居場所を確保しておくように」という意味だったと思うのです。
私はキリストを通して、その避難場所を作りました。-ジョン・ウッデンとジェイ・カーティー [4]
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神の言葉とその保証には制限も限界もありません。私たちの信仰以外の何ものにも制限されていないのです。神は時間や空間や土地や場所に縛られてはいません。「主のみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」、その約束は不滅です! [5] 主に従い、信頼している限り、私たちの将来は神の約束のように明るいのです。
私たちが従う時、神はご自分の約束を守られます。神はその保証されたことを成し遂げ、その栄光の富の中から私たちの必要を満たされます。私たちはただ、神とその富に頼るだけでいいのです。神は大いなる方であられ、莫大な富を所有し、決して失望させられません! -デービッド・ブラント・バーグ
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種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。-2コリント9:10
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それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。 命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。
野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。-ルカ12:22-28
2014年7月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガーシア・ヴァルディヴィエソ。