神の計画
God’s Plan
August 12, 2019
ピーター・アムステルダム
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新約聖書の核となる教えは、聖書中で最も美しい節のひとつである次の言葉に見出されます。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」[1]
この節は、驚くべき真実を明かしています。宇宙の創造主が、三位一体の第二位格である御子、神イエスを送るほどに人類を愛して下さったというのです。それは、イエスが人間となり、私たちの犯した罪の身代わりとなって死ぬことにより、私たちがその罪のために罰を受けることがないようにするためでした。私たちは罰を受けて当然であるというのに。イエスが犠牲によって私たちの罪の代価を支払って下さったので、私たちは永遠の命をいただく機会にあずかっています。
世界の創造の前にすでに決定されていた神のご計画は、人類に対する神の愛に根差しています。父、御子、聖霊は、私たちを愛しておられます。そして、私たちが罪の究極の結果である霊的な死と神からの隔て、つまり聖書では地獄と呼ばれているものから救い出される方法を備えて下さったのです。
神は冷酷で怒りに燃えた神であると感じている人がいます。人が神に対して犯した罪について気を害しているので、厳しい裁きを与え、彼らが罰せられることを自分勝手な気持ちで求めているのだと。しかし、実際にはかなり違っています。神の性質には、聖さ、正義、公正、怒りという属性が備わっているため、ご自身の神性どおりに、神は罪を裁かれなければなりません。
神はすべての人間に、その犯した罪にふさわしく、当然の罰を与えることもおできになりました。しかし、ご自身の神性には愛や憐れみ、恵みという属性も備わっているため、ひとりも滅びることがないことを望んでおられるので[2]、人類があがなわれるための道を作ってくださったのです。このあがないは神の愛に根差しています。神はそうしてくださる「ほどに、この世を愛して下さった」のです。神の愛がどのようなものかというと、私たちは罪びとであり、神に対して罪を犯しているのに、神はその愛によって、私たちが罪のゆえに受けて当然の罰から救い出される方法を作り出して下さったということです。救いについての神のご計画は、人類に対する神の憐れみと愛の表れです。
まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。[3]
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。[4]
初めから
神は宇宙を創造なさる前から、自由意志を持つ人間は罪を犯すことになるとご存知でした。そこで、救いの計画により、人類を罰から救う方法を作り出されたのです。
神は、人類を救ってあがない、また人類と和解することを強く願っておられます。神には私たちを救う義務はありません。ただ私たちが罰を受けるに任せることだってできたのです。しかし、そうはされませんでした。私たちへの愛ゆえに、神は、私たちをあがなう方法を設けられました。神は初めから救いの計画をお持ちであり、それはアダムとエバが最初の罪を犯したときに始動し、イエスの死と復活で完結しました。
神は全知の創造者であり、アダムとエバが罪を犯したことに驚きはされませんでした。彼らが自由意志により神に逆らう選択をするだろうことはご存知だったのです。将来を予知しておられたので、救いの計画を前もってお立てになっていました。
救いの計画には、イスラエル民族を呼び出すことが盛り込まれていました。この民族に対して、ご自身を啓示し、戒律を与えるというものです。イスラエル民族に語った言葉によって、神は唯一で真実の神であるご自身についての情報を明かし、また律法を示されました。イスラエル民族は神の啓示を保持し、幾世代にもわたって伝えていくことによって、それを絶対に失わないようにしていました。イスラエル民族の子孫として、神であり人である方、神の御子が送られ、その方を通して、救いが人類にもたらされました。
イスラエル民族の歴史は、イエスを通して人類に救いをもたらすために神がなさった下準備の歴史なのです。旧約聖書には、メシアの生涯と使命に関する預言だけではなく、受肉した神である御子を通して救いがもたらされることの予示である数々のことも記載されています。
創世記の随所に、神に犠牲を捧げることが書かれています。カインとアベルの犠牲から始まり、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、その他の人たちが犠牲を捧げているところです。その中で特に、アブラハムが自分の子であるイサクを犠牲にするよう神に求められる話は、神が人類の罪のためにご自身の御子を犠牲にされたことの予表となっています。イサクが父アブラハムに、犠牲の子羊はどこにあるのかとたずねた時、アブラハムは神が備えて下さると答えました。アブラハムが祭壇の上で息子を屠ろうとしたその時に、主は彼に、やぶにひっかかった雄羊を示され、アブラハムは息子の代わりにその雄羊を犠牲としました。神への犠牲として、イサクの代わりに子羊を捧げたことは、代理犠牲の概念を表しています。これは、のちになってから神がモーセを通してイスラエル民族に与えられた、罪のあがないとしての動物犠牲システムの土台となっています。神が雄羊を備えて下さったことは、人類の罪のための犠牲として御子を備えて下さったことを予示しています。[5]
エジプトから救い出されて2年目に神は、動物犠牲が罪をあがなうという、レビ族による犠牲システムを始めるよう、モーセに指示されました。[6] 毎年、贖罪(あがない)の日には、全国民の罪のために特別の犠牲が捧げられました。まず大祭司は自分自身の罪のために犠牲を捧げ、次に民のために特別の犠牲を捧げます。
旧約聖書の犠牲には、身代わりを通して罪があがなわれ、和解が行われるという概念が見られます。イサクの代わりに雄羊が犠牲となったと同様、動物は奉納者の罪の代わりに犠牲となりました。このような旧約聖書の犠牲は過去の罪をあがなうためのものであり、罪が犯されるたびに、繰り返し犠牲を捧げる必要がありました。
イエスの死と復活によって救いがもたらされるという神の計画は、人類が存在する前からある、人類のあがないの計画です。神は、その計画を旧約聖書の中で明かし始められました。それから新約聖書の時代が来ると、バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を発し[7]、その時から、ご計画の全体像が明かされるようになったのです。
神の子羊
イエスの死によって、つまり、イエスが私たちの罪のために私たちに代わって血を流すという犠牲によってあがなわれるという神の計画の成就は、新約聖書の至るところで繰り返し述べられています。イエスこそが犠牲になった子羊であり、私たちに変わって死んで下さり、あの贖罪の山羊のように、私たちの罪をご自身の身に負って下さったのです。
イエスは、罪の奴隷状態から私たちを救って下さるあがない主です。その死と復活は、あがないに関する神の計画の成就なのです。神は今までいつもご自身の被造物に対して、聖く、義であり、公正な存在でした。また、愛情深く、憐れみ深く、恵み深い方でもあります。そして、私たちはこれまでで一番大いなる犠牲からの恩恵を受けているのです。
キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。[8]
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。…彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。[9]
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。[10]
まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。[11]
初版は2012年10月 2019年8月に一部を抜粋・再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・ヴァルディヴィエソ