神の「完全なものとする」贈り物
God’s “Perfecting” Gifts
February 3, 2016
フィリップ・マーティン
今日、興味深い考えが浮かびました。デボーションをしていた時に、『荒野の泉』に掲載された、モルトビー・ダベンポート・バブコックという昔の聖徒が書いてあるものを読みました。それは、「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない」[1] というヤコブの手紙1章の言葉についてです。これを読んだことがきっかけで、もっと深く掘り下げてみようと思いました。
最初に、より深く吟味してみる価値があるのではないかと思ったのは、バブコックが、「神からのあらゆる良い贈り物は『完全なものとする』賜物です」と言ったところです。その「完全なものとする」(完成させる、成し遂げる)という言葉が興味をそそりました。読み進めると、こうありました。「…また、何ら欠点のない贈り物であり、あらゆる点ですべてそろっており、健全で非の打ちどころのない贈り物です。」
「あらゆる良い贈り物、あらゆる『完全なものとする』賜物は、上から…下って来る。」 以前にこの節を読んだ時には、あらゆる良い贈り物とあらゆる完全な賜物とは同じであるとか、単純に考えて「良い」は「完全」と等しいと思ったりしたものです。だから、状況が「良い」時にはそれは神からであり、「良くない」時にはそれは神からではないに違いないと考えがちでした。私は、そういった完全な賜物を、「完全なものとする賜物」として見ることはしていなかったのです。
でも今は、「共に働いて、万事を益となるようにして下さる」というローマ8:28の顕微鏡レンズを通して神の「完全なものとする」賜物を見るようになりました。他にも、ヨハネ15:2の「実を結ぶものは、手入れしてこれをきれいになさる」、ヘブル12:6の「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」というレンズがあります。光が差したのです。パウロの言葉を言い換えて言えば、こういうことです。「以前、生れながらの人であった私は、神の御霊の賜物を受け入れられなかった。それは私には愚かなものに思えたからである。また、御霊によって判断されるべきものであるから、私にはそれを理解することができなかった。」[2] 私はこの件について、「キリストの思い」がわかり始め、主が見られるように見始めたと感じました。
では、こうした神からの「完全なものとする」賜物は、私たちのために、また私たちに対して何をするのでしょうか? パウロは、「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」[3] と言っていますが、主が私たちのうちに持ってほしいと願っておられる永遠の重い栄光とは何でしょうか?
バブコックはこう説明しています。
「人格はあらゆる代価を払うに値します。神はたえず、いつのときにも、人格形成に取り組んでおられるのですから、それをもたらす助けになる拒絶や試練は、あなたに喜びの笑いを与えるような贈り物と同じように、神の変わることなき目的を果たす道具なのです。
状況が人格を形成するのではありません。最も気高い人格が、最悪の環境から生まれることもあり、最善の環境から道徳的な失敗者が生まれることもあります。今いる場所で、人生に起こることを道具としてみなし、それを神の栄光のために用いることで、御国の到来を助けなさい。そうすれば、主はあなたの人生に起こることを使って、あなたをカットし、磨かれます。それによって、いつの日か、主の姿に似た魂があなたのうちに見られるようになるのです。」
このような「完全なものとする賜物」を通して、神は私たちを変え、私たちの人格を「御子の姿に似たもの」に変えておられます。パウロが2コリント3:18で「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と言ったとおりです。神は、私たちの人格が御子の人格を映し出すものであってほしいと願っておられるのです。彫り、ヤスリをかけ、こすり、磨き、清め、型打ちし、砕き、作り、作り直すというのは全て1つの目的、ただ1つの目的のためです。それは、人々が私たちを見る時に、私たちの内に神の御子の姿が映っているのを見られるようにすることです。
J・R・ミラーは、それをこのように表現しました。
「『character』(人格)という言葉の語源は示唆的です。それは、ひっかく、彫り込む、溝を掘るという意味の語根から来ています。そのうちに、何かに彫り込まれている、切れ目がつけられているという意味になりました。つまり、人生に関して言えば、経験によって魂につけられた切れ目や溝ということになります。…その人生は、まだ何も書かれていない白い紙のようです。あるいは、彫刻家がまだ何も彫っていない、なめらかな大理石のようです。あるいは、画家に彩られるのを待っているカンバスのようなものです。人格は年月とともに培われます。それは、紙に記されていく書き物、歌、ストーリーです。大理石にのみがあてられて、刻まれ、彫られていくことです。また、画家がカンバスに描く絵なのです。最終的な人格というのは、地上での人生を終えた時にその人がどうあるかです。クリスチャンにとって、それはキリストに似た姿に刻み込まれたものです。時には、恵みや人生の経験という手段を通して、神の霊によって魂に刻まれているのです。」
では、ヤコブ1:17の後半を見ていきましょう。「…光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」 バブコックはこう書いています。
「『変化』という言葉は視差、つまり、観測位置の変化により生じる差異を意味します。『それこそ、私が言いたいことだ。神は私に対して態度を変えた。神はかつて私のことをどれほどよく扱ってくださったことだろう。若かりし日々がどれほど幸せで、輝かしい蕾や花に満ちていたことだろう。ところが今、私の繁茂した枝葉は切り払われてなくなり、神の剪定ナイフによって私の枝は血を流している。』 でも神は、私たちに対する見方も考え方も全く変えておられません。2500年前にエレミヤを通して次の言葉を語られた時から、全く変わっていないのです。『わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。』」[4]
それから、神の完全なものとする贈り物が共に働いて益になるという考えの周りにロープを張るかのように、バブコックはこう続けています。
「愛する人よ、神のあらゆる贈り物は、『完全なものとする』贈り物です。スキやクワや剪定ナイフは、太陽や雨と同様に神の贈り物です。ぶどうの実は、ただの生い茂った葉や絡み合ったつるより良いものです。なぜなら、剪定という処置がないならば、ただそういう状態になってしまうのです。
暗闇の中で、こう叫ぶ心があるかもしれません。『私にとって神の贈り物は、良いもの、完全なものとは程遠い! それどころか、健康や希望や愛する人たちを、私から奪い去った。信仰など茶番であり、摂理なんて愚か者が見る夢だ。』 苦しんでいる、親愛なる人よ、その言葉をもう一度見てください。『あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。』 これは、素晴らしい言葉ではないでしょうか!
あなたの人生の影は、主の回転によってではなく、あなた自身の回転によって生じたものです。神のあなたへの愛の想いは決して変わっていません。また、神が顔を背けたために影が落とされたということでもありません。あらゆる良い贈り物、あらゆる『完全なものとする』賜物は、上から来ています。いつの日か、金はるつぼを感謝し、鋼鉄は痛みの炉を感謝し、紫色のぶどうの房は、切り取りをするナイフを感謝することでしょう。」[5]
終わりに、詩篇にあるダビデの言葉をひとつ紹介します。この詩は、私にとって、これまでにも増して意味深いものとなりました。
主はわたしのために、みこころをなしとげられる(完全に行われる)。
主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。
あなたのみ手のわざを捨てないでください。
—詩篇138:8