神の癒しのタッチ
God’s Healing Touch
September 22, 2016
マリア・フォンテーン
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「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」—哀歌 3:22–23
深い悲しみや苦しみ、損失を味わうという経験があると、打ちのめされそうになることがあることでしょう。感情的、身体的、精神的な闘い全てを一度にしなければならず、耐えられないほどの気持ちになることもあります。
今の試練に至る羽目になった状況ゆえに後悔の念や自責の念に苛まれることもあるでしょう。でも、自分を責め続ける必要はありません。主にごめんなさいと言い、ゆるしを求めれば、それでおしまいです。主はあなたをゆるされ、その罪や失敗や間違いであなたを咎めることはされません。
ただ信仰によって主のゆるしを受け入れればいいのです。自分はそれにふさわしくない、罪や過ちの代価を払って然るべきと思うかもしれませんが、主はこう言われます。「わたしのゆるしを求めた瞬間、さらにわたしに呼ばわった瞬間、わたしはすぐにゆるしを与えるので、心配したり、恐れたり、荷を負い続けたりする必要はない。」 イザヤ書で主は、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」と言っておられます。[1]
後悔や自責の念がある時には主に呼ばわり、主のゆるしを受け取ってください。すぐにそれを受け取れるのですから。後悔や自責の念という苦痛のうちに、あと一分たりとも留まる必要はありません。神の言葉には、一切の重荷とこれまでの罪とをかなぐり捨てるようにとあります。[2] 主の憐れみは日々新たになります。私たちにはイエスがついていてくださるので、毎日を新しく始めることができるのです。
乗り越えられないように思われる試練や困難に直面すると、もう二度と幸せにはなれないように思え、非常に落ち込みます。こんな最悪の気分になったことはないと感じるのです。でも、そういう時もいずれ過ぎ去ります。イエスが痛みを和らげ、その愛と、終わりなき憐れみによってあなたを覆ってくださるからです。
イエスは自責の念という重荷を全て取り去ると約束されたので、全て主に委ねてしまいましょう。その荷はあなたには重すぎますが、あなたが担うべきものではないのです。「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」[3] あなたがイエスにゆるしを求めた瞬間に、主はそれを与えられるので、もう心配したり恐れたりする必要はありません。どう感じようと、主のいつくしみは絶えることがなく、その愛は尽きることがないと信頼することができます。[4]
試練の最中にいる時には、主がその経験を何かの形で益にされるというのは理解しがたいことです。その全てが共に働いて益になるなどほぼ不可解に思えます。特に、打ちのめされ、切羽詰まり、もう頑張れないと感じている時には。でも、主は、敗北にしか思えないようなものの内にも、私たちはいつか良きものを見出すと約束しておられます。そのことを忘れないでください。
暗闇の時、悲しみの時、衰弱の時、悪戦苦闘の時、疑問や疑いに苛まれる時に、主はあなたに必要なものを全て与えてくださいます。何よりも、癒しという形で主はあなたに愛を与えてくださいます。主はあなたの心と霊と生きる意志とを新たにされたいのです。
主は、私たち一人一人に、その人のためだけの計画を持っておられます。一人一人が主には尊く大切で、愛おしい存在です。主は、その子どもを分け隔てなく愛されます。どの状況でも、苦しむ人もいれば、救い出される人もいますが、それは、それぞれに対する神の愛に違いがあるからではなく、神は一人一人に対してその人のためだけの計画を持っておられるからです。試みの時には、疑問を抱き、何とか理解しようとするのは自然なことですが、最終的にはただ主に信頼するしかありません。主は、私たちが一心に主を尋ね求めるならば、主に会うと言われました。[5] 主に近づけば、主は全ての必要を満たし、疑問に答え、傷を癒し、砕かれた心を強めてくださいます。
困難な時にこそ、それまでには知らなかった形で主の愛や憐れみ、ゆるし、優しさを、知ることができるようになります。だから、愛や憐れみという主の贈り物を受け取り、主にはあなたのために素晴らしい計画や未来があると信じなさい。こう約束されています。主の計画は「災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」[6]
私たちが最も砕かれ、自分の内には力がなく、自分がどれほど弱く、もろいかをわきまえている時にこそ、主はしばしばご自身の栄光のため、また他の人たちのために、私たちを最も使うことができます。主は、私たちの灰からさえ美しさを、また、ひどい状況にしか見えないものから益をもたらすと約束されました。主の見方は私たちの見方とは大きく異なります。主は、私たちがこの人生で経験する全てを使って、私たちを主の愛の心に近づけ、主に似たものにしたいと願っておられるのです。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」[7]
考えてみてください。ペテロの人生における最も暗い時になるであろうと思えた時に、イエスは、彼が痛みや混乱、疑い、後悔の念を抱くだろうとおもんばかって、こう言われました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」[8] 愛する人たち、皆さんのために祈っています。こうした慰めの言葉にしがみつき、そこから、どんな困難に直面していようと主の愛を信じるだけの信仰を得ることができますように。
神があなたを祝福し、守り、癒してくださいますように。そして、あなたが信仰の戦いを立派に戦い続け、神を愛する人への多くの約束をしっかり手にするのを助けてくださいますように。
初版は1995年7月。2016年9月に改訂・再版。
朗読:デブラ・リー。