神の遅延
God’s Delays
February 2, 2016
引用文集
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わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。—エペソ2:10
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私たちは、夢が昨日にでも現実になっていてほしかったと思うものですが、私は「神の遅延」と呼んでいるものがあり、それを感謝するようになりました。神は、あなたが神の望まれるところに行きたいと思う以上に、あなたに神の望まれるところに行ってほしいと思っておられます。だから、深呼吸をし、旅を楽しみ、神が、あなたの準備が整った時にそこに連れて行ってくださると確信していましょう。あきらめずにいるなら、今のイライラは将来のお祝いの理由となることでしょう。あきらめないことです。神は感情的な粘り強さを養っておられます。感情的に粘り強くなる鍵は、打ちのめされるような、極度の落胆を経験することです。そうすれば、神が聖なる自信をもって私たちを再生させてくださいます。感情的に張り詰めた時はいつも、神がより大いなる方法で使えるように、私の感情的な器を大きくしてくださっているのだと自分に言い聞かせます。
今の状況は自分の望むものではないかもしれません。鬱との闘いがあるか、あるいは、ゆるされがたく思われる過ちにひるんでいるか、病気でそんなに弱まった状態に嫌気がさしているのかもしれません。でも私はあえて、神が人格を築いて下さっているのだと言いましょう。どうしてわかるのでしょう? あなたは神の作品だからです。神は彫ったり、 削ったりしておられます。未完成の芸術のように、まだ美しい姿ではないかもしれませんが、神は始めたことを必ず完成なさいます。私たちが神を見限ってしまうのでない限り、そうされるのです。だから、今の状況が好きでないとしても、それこそがあなたをより深みのある人間にする鍵なのかもしれません。
私たちは信仰の核となる事実をすぐに忘れてしまいます。十字架なしによみがえりはありません。死からよみがえりまでは長く暗い日々が続きますが、奇跡が起ころうとする時というのは、そういうものです。いつどこでどんな風に夢がよみがえるかわかりませんが、そう神に定められているなら、神ご自身がいつかどこかでそれをよみがえらせてくださるでしょう。−マーク・バターソン [1]
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神はその言葉の中で約束をされたので、祈る時に、その約束を携え、神に思い起こすべきです。神にご自分の言葉を思い起こさせる時、それは、あなたがそれに信仰を持っているしるしです。自分の信仰や神の言葉の知識に関する前向きな宣言となり、それは神を喜ばせます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」からです。[2]
「また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが…(神の約束によって)神の性質にあずかる者となるためである。」[3] 契約(聖書)の条件を契約作成者(神)に提示し、約束を守ってくださるように言わなければなりません。神はご自分の言葉に縛られているので、それを神に思い起こさせましょう。約束にしがみつき、暗記し、口に出して言うのです。神が答えてくださることをひと時も疑ってはいけません。そうすれば答えてくださいます。
けれども、常に、神の条件を覚えておきましょう。神が求める契約の条件、つまり信仰と従順です。まず信仰と従順があってこそ、神が祈りに答えてくださいます。私たちが主に従い、忠実で信頼し信じているなら、神は祝福し、答えざるをえません。もちろん、神は私たちの信仰が試されるのをお許しになることもありますが。
神の遅延は必ずしも拒絶ではないことを覚えておくのは助けになります。時に私たちは信仰を持ち、神が答えられるのを待たなければなりません。それは普通、「信仰がためされること」になり、それによって「忍耐が生み出され」ます。[4] 忍耐を学ばせるというのは、神が最も頻繁に教えられることであり、忍耐という徳を持っている人はごくわずかです。それは本当に信仰を試し、私たちは主とその言葉に頼らざるをえなくなります。
神は祈りに答えられますが、必ずしも私たちの方法でなさるわけではありません。神は、赤ちゃんを作るにも、花や木を作るにも、また夕日を描くにも、葉っぱ一枚にも、時間をかけられます。神を急がせることはできません。神の時を待たなければならないのです。神が教えようとしておられるレッスンを学ぶか、神がもたらしたい結果のために条件が整うかするまで待たないといけません。聖書に出てくる、生まれつき目の見えなかった男性のように、皆に知られ、イエスがいつかやってきて、奇跡的に癒され、神が栄光を受けるようになるためです。何年もたたないとその理由がわからないかもしれませんが、その時はやってきます。そして、あなたは神が正しかったとわかることでしょう。神にその機会を、そのための時間を与えてください。主を待ち望みましょう。
最も闇が深いのは、夜明けの直前です。救いの直前にこそ、最も大いなる絶望感に苛まれます。救出の直前に、もう望みがないという思いに襲われるのです。あと一息、あと一歩、あと一時間、あと一日しがみつけるなら、栄光に満ちた勝利が得られます。神に信頼し、たとえすぐに答えが見えなくても、とにかくその答えが来ることを感謝してください。明日になれば、神に信頼してよかったと思うことでしょう。—デービッド・ブラント・バーグ
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信仰を築くために、神はあなたに夢をお与えになります。そして、決断するよう促されます。そのあと、神は遅延を許されます。遅延を使って、神はあなたを成長させ、将来に備えさせるからです。
実際のところ、神が遅延をもたらすと、あなたは困難を味わうことでしょうが、それは、神があなたのことを気にかけないからではないし、あなたの状況のことを忘れてしまっているからでもありません。神はそうやって、信仰の深淵にまであなたを追いやられるのです。
神の遅延にあって、あなたは2種類の困難に直面します。状況と批判です。それは人生につきものです。神がそう設計されたのです。というのも、私たちは逆境や反対にあったときにこそ強く成長すると、神はご存知だからです。
モーセは、イスラエルの民を導いてエジプトを脱出し、荒野を旅して約束の地に向かった時、次から次へと問題に遭遇しました。最初は水不足、そして食べ物も不足し、大勢から不平を言われました。毒ヘビもいました。モーセは神の望まれたことをしていましたが、それでも問題に悩まされたのです。
ダビデは王となる塗油を受けましたが、その後の数年間、サウルに追われる身でした。ヨセフは支配者になる夢を見ましたが、奴隷として売られ、偽りの罪で投獄され、苦しみ、忘れ去られました。ノアが水に浮かぶ動物園を建てるのに、どれほど苦労したかを想像してみてください。
聖書は、モーセが死んだ時に、ヨシュアが新しい指導者に任命されたとあります。モーセは荒野を通って人々を導き、それからヨシュアが彼らを約束の地に連れて行きました。それは楽な部分だったのでしょうか? 聖書によれば、イスラエルの民が約束の地に入ると、その地には巨人がいたそうです。約束の地にでさえも問題があったわけです。
神がそういうことをされるのは、私たちの信仰や人格を養うためです。状況が悪化を極め、私たちが限界に達し、もう何もかもやり尽くし、四方八方道がふさがれた時にこそ、神は私たちを通して力強い業を始められます。「そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ…るであろう。」[5] —リック・ウォレン [6]
2016年2月アンカーに掲載。朗読:ジェリー・パラディーノ。