神が支配しておられる
God's in Control
March 17, 2016
デービッド・ブラント・バーグ
私たちがあまりにも気をそらされていて、他のことや世の心づかいやイバラのことなどについてばかり考えていると、神は人生に起きる様々な出来事を使って、私たちの注意を引こうとなさることがあります。私たちはあれやこれやを心配しすぎて、主から思いをそらし、主に信頼することを忘れてしまい、主に重荷を委ねて世話していだたく代わりに、重荷の事ばかり考えてしまうことがあります。私自身、このすべてのことについて非があるので、誰に説教しているわけでもありません。ただ自分の罪を告白し、神がどのように私の人生に働かれたのかを告げているだけです。
神には、私たちのためや、私たちの人生のご計画のために定められた時というものがあります。神は未来のことも、私たちが何をすることになるかもご存知です。率直に言って、私たちが敵なる悪魔にそうさせてしまうか、神が良き目的のためにそれを許されるのでない限り、神は、敵が主の子どもたちの人生を妨げるのをお許しになることはないと、私は信じています。主に背くよう信じこまされるのを自分に許してしまった若い預言者のように。[1] 彼は主を知っていて、神の声も聞いたのですから、もっと物事をわきまえていたはずです。気をそらされて、神から自分への明確な命令に背くようなことがあってはならないとわかっていたのです。
私はよく、学校で自分の生徒たちにこう言ったものです。「悪魔がこれをしたとかあれをしたとか言うのをやめてほしいものだ!」 彼らはまるで悪魔が全能であって、神や神の天使たちなどあらゆるものの裏をかくことができるかのように言うことで、悪魔を讃えていたのです。「悪魔が車を壊した、悪魔がこれをした」などと。そこで私はこのように言いました。「お願いだから、悪魔に栄光を与えたり、悪魔の仕業について話すのはやめてほしい。君たちにとって一番厄介な霊とは、悪魔やその悪霊どもではなくて、君たち自身の霊なんだ!」
神が私たちをあらゆる方法で保護され、聖なる御使いがまわりに陣を敷き、多くの証人も雲のように囲んでおり、良い霊たちが私たちのために祈り、見守り、助けてくれているのですから、私たちが何かの理由でそれを許してしまうのでない限り、悪魔が私たちに害を与えることなどできるでしょうか? あるいは、何かのことで、私たちがどれだけそれを望んでいるか、どれだけ決意が固いか、どれだけ信仰があり、どれだけ御言葉の知識を持っているか、御言葉をどれだけ固く守っているかを見るためのテストや試練として、主がそれを許しておられるのでない限りです。
私には全能の神がおり、神は全てを支配しておられます! 神は、何か正当な理由があるか、神の計画の一部でない限り、悪魔が、つまりその小悪魔や小悪鬼やサタン自身が、あなたの髪の毛一本にも触れることをお許しにはなりません。神は全権を握っておられます。霊的領域において全能をふるっておられるのです。悪魔は神の許可なしには何一つできないし、手下の小悪鬼どもに何かをさせることもできません。
なぜ神はペルシャの君がガブリエルを遅らせるのをお許しになったと思いますか? 神の許可がなかったなら、ペルシャの君がガブリエルを1秒だって止めることはできなかったはずです。なぜ神はメッセージの伝わるのが遅れるのをお許しになったと思いますか? 私は神がダニエルの信仰を試すためにそれをお許しになったのだと思います。神は、ダニエルがどれだけ粘り強く、どれだけ断固とした態度をとり、どれだけ執拗になり、どれだけ決意を固くして答えを得ようとしていたかを見ようとしておられたのです。[2]
ダニエルは勇気と決意と信仰の人であり、祈りの答えが3週間も遅れるという時のテストに耐え抜きました。神は時々、私たちを試し、御言葉と神の力への信仰と信頼を強めるために、そういったことが起こるのをお許しになることがあります。私たちが神を信頼し続けるかどうかを見るために、人生で何度も試されるのをお許しになるのです。
ダニエルは3週間も答えを受け取らなかった時に、あきらめることもできました。あきらめて、こう言うこともできたはずです。「神よ、あなたは答えてくださいませんでした。主よ、私は民のためにあれやこれをしてくださいとお願いしたのに、あなたは私を失望させられました。あなたはそうしてくださらなかったのです!」 それは多くのクリスチャンにとって思わぬ落とし穴です。彼らはこんな風に言います。「主よ、私は努力しました。良くなろうと努力しました。クリスチャンになろうと努力しました。あなたに仕えようと努力しました。でも、あなたが助けてくださらなかったので、できませんでした。あなたは私を最後まで助けてくださらず、祈りに答えてもくださいませんでした!」 多くの場合、もう少し頑張って、ヨブのように、たとえ神に殺されたとしても神に信頼するつもりだということを示したならば、神は答えてくださったでしょう。[3] しかし、彼らにはその信仰がありませんでした。忍耐がありませんでした。固い決意がありませんでした。
トマスの信仰は小さいものだったに違いありません。そうでなければイエスの傷に指を入れることなどなかったでしょう。トマスはイエスを主と呼び、主はトマスがしるしを見ることをお許しになりました。明らかに、彼にはそれが必要だったのです。トマスの信仰は弱かったので、主は彼を励まそうとなさいました。ただ、主はこう言われました。「見ないで信ずる者は、さいわいである。」 [4]
神はモーセが「見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」[5] ゆえに、彼を称賛なさいました。私たちが知る限りでは、彼は生涯で一度、神のうしろ姿を見たことがあるだけです。[6] なんらかの証拠を見るまでに40年もかかったのです。モーセはおよそ40年間も、完全に敗北していました。しかし、モーセが神の民を救うことになっていたゆえに、主は憐れみを持たれました。それから神は、神の選民であるイスラエル民族を救い出したいと望んでいるモーセにただ羊の世話をさせることで彼を謙遜にするのに、さらに40年もかけなければなりませんでした。
私がかつてよく言っていたように、神は時として、私たちの身を低くして謙遜にさせるために何かが起こるのをお許しになることがあります。そしてその後、私たちがまだ謙遜かどうかを見るために、さらに何かが起こるのをお許しになるかもしれません。
神は80年近くもかけてモーセを謙虚にさせてからでないと、彼に何事も示すことができませんでした。モーセは奇跡の一つさえ見ませんでした。神の素晴らしい被造物以外は何も見なかったのです。それもすべて奇跡ではありますが。神はモーセに羊を導く方法を教えなければなりませんでした。主はモーセに一つのしるしをも見せる前に、彼に忍耐を教え、信仰を試されました。それから、神はモーセの準備ができたとわかった時に、しるしを与え始められたのです。モーセは、神が自分をお使いになるというしるしを与えられる前に、40年間も荒野で待ちました。
神は信仰の試練についてなんとおっしゃっているでしょう? 「あなたがたの信仰はためされて‥‥金よりもはるかに尊い‥‥。」[7] 「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく」むしろ喜びなさい、とあります! なぜでしょう? それは「キリストの苦しみ」にあずかっていることだからです。[8] なぜ神はキリストが苦しむままにされたのでしょう? 「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び‥‥。」[9] 神は御子でさえも従順とはどういうことかを知るように、また御子自身は罪を犯さなかったけれども罪とはどういうものであるかを知るようにと、御子が苦しみにあうことを許されました。それは、御子が私たちの罪のために苦しまなければならなかったからです。[10]
神は至高の存在であり、全知全能で、偏在、つまりどこにでもおられる方です。神は時々私たちが注意散漫でわがままだとか、その他色々な理由で、私たち人間に何かをわからせることに苦労なさっているかもしれません。しかし、神の子どもである私たちの人生において神がなさることやお許しになる出来事にはすべて理由があります。「神は、神を愛する者たち‥‥と共に働いて、万事を益となるようにして下さる。」[11]
初版は1985年12月。2016年3月に改訂・再版。
朗読:サイモン・ピーターソン。
1 列王上 13.
2 ダニエル 10を参照.
3 ヨブ 13:15.
4 ヨハネ20:29.
5 ヘブル 11:27.
6 出エジ 33:23.
7 1 ペテロ 1:7.
8 1 ペテロ 4:12–13.
9 ヘブル 5:8.
10 2 コリ 5:21.
11 ローマ 8:28.