神の召しは直線状ではない
God’s Calling Is Not Linear
March 1, 2016
引用文集
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20代30代のクリスチャンにとって、どんな職に就こうかということは、召命感と関係しています。キリスト教系の教養大学に通っていた頃には、中国で宣教の手段として事業に携わるとか、国際法の専門家となって性的目的の人身売買に立ち向かうといった、ごく特別な形で神に召される事について学友たちが話しているのを、よく耳にしました。それは崇高で価値ある仕事ではあるものの、世間一般の人々同様、教会人である私たちでさえも、神が自分に望まれている道が、どちらかというと直線状の狭い道であると、思い込んでしまうことがあります。そして人生に予期せぬ展開や、厄介な「妨害」(私のよちよち歩きの息子のような)が生じると混乱して、あたかも自分の召しが終わってしまったかのように感じるのです。「自分は神の言葉を聞き間違えたのだろうか?」 「何か間違ったことをしたのだろうか?」と。
召しというものは直線状ではないということに気づくなら、自由になれます。…私が心の師と仰いでいるある人が、こう教えてくれました。神の目にA地点からB地点への最短直線ルートに見えるものは、私たちの目には、どこへ続くとも知れない荒野の曲がりくねった道に見えるものだと。モーセは燃える柴を見かけるまで、人知れず何十年も家畜を牧していました。同様にイエスも、公に福音を宣べ伝える準備として、御霊によって荒野に連れ出される前は、その仕事時間の大部分を、無名の大工として過ごされたのです。
私たちは多くの場合、モーセがパロに立ち向かったとか、イエスが足の動かない人をいやし、死人をよみがえらせなさったという、物語の興奮に満ちたくだりを何度も繰り返し語りますが、それ以前の準備期間や、混沌とした年月については、あまり口にしません。私たち自身の人生においても、同様のことが言えます。中国で事業を始めたとか、夢が叶ってインターナショナル・ジャスティス・ミッション(キリスト教系の人権団体)での職に就けたといった話はよくするけれど、それ以前に携わっていた単調な仕事や、これといった成果が見られなかった時期については、話さないのです。「本当の人生が始まったのは、あの時だ」と考えているからです。
しかし、神は、羊を牧することであれ、材木を切ることであれ、つまらない事務処理であれ、家庭でおむつを替えることであれ、平凡な仕事を忠実に行うよう求められます。仕事が軌道に乗った時ではなく、たった今、この世界でご自分の愛を身をもって示すようにという召しをお与えになるのです。ティム・ケラーは、「無益な仕事」をしばらくの間、忍耐強くやり続けることも大切であると言っています。それらを通して、後々私たちを塩や光にしてくれるような、数々の物事を学ぶからです。
おそらく私たちは、「卒業したら何をしますか?」という質問を、「神はあなたがどんな人物になるよう召しておられるでしょうか?」と言い換えるべきなのでしょう。これは年若き大人たちが、必然的に変化するであろう職業から、生涯を通して深みを増すばかりの人格へと、そのアイデンティティーの向きを移す助けになるでしょう。私自身、まだ何をしているのか、わかっているわけではありませんが、それでも人々を温かくもてなし、寛大に振る舞い、沈黙と静けさだけがもたらすことのできる知恵をもって歩む人生へと、神が自分を召しておられることはわかります。どんな職に就いているかどうかと関係なく、私はたった今、そのような人生を生きることができるのです。—リウアン・フスカ [1]
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「神は別の何かに、私を召しておられるように思います。」 私は主任牧師に、おずおずとそう切り出しました。
「それは教会内での別の仕事、ということですか、それとも神が、教会の外に召しておられると?」と彼は尋ねました。
同じ日に後で、妻にその会話のことを話しました。「何ですって?」 妻は思わず声を上げました。「出て行くようにと言われたら、どうするつもり?」
「そうは言わないと思う。」 確信はありませんでしたが、私の思った通りでした。そして18ヶ月後、私は主からずっと告げられていた召しにしたがうために、あの「夢のような」地位を降りたのです。
しばらくして、私は勤め口を見つけたのですが、それをすべきだと確信しました。それは生徒を大学進学に備えるという、助成金支援が得られる地元の高校の仕事でした。私には経験も資格もありませんでしたが、神は扉を大きく開いて下さいました。その仕事は4年間続きました。
その役職への助成金支援が終わると、そこから召し出されたというよりは、無理やり追い出されたように感じました。そこでしぶしぶ職を探し、地元のコミュニティ・カレッジでの指導教師の仕事を見つけました。
「主よ、何をしておられるのですか?」 私は毎日のように、そう問いかけていました。
この一番最近起こったチェンジにおいて、私は落胆や、幾らかの絶望感とさえ戦いました。それは容易なことではありませんでした。主が私に教えておられる教訓は、以下のようなものです。
アイデンティティーは、召しによって左右されるものではない。神は私がどんな職を選ぶかよりも、私の人格の方をずっと気にかけておられます。これは私が人生で繰り返し学んでいる教訓のようです。とりわけ自分が「宣教の使命」に召されていると感じ、教会の中で育ったがゆえに、それが実際に何を意味するであろうかを、かなり良く把握している場合、それを学ぶのは難しいことです。
私はとても困難な時期を通ってきました。自分のアイデンティティーはキリストにのみあると、頭ではわかっているのですが、心の底からそう信じるなら、神が何をされているのだろうと疑問を抱く日々はもっと減り、神の力によって活発に生きる日々が、大幅に増えることでしょう。
宣教の使命は、教会の仕事だけに限らない。宣教の使命への召しは、教会の壁を越えてはるか彼方にまで及びます。二―ル・コールはその著書『Organic Church』の中で、大宣教命令は「あなたがたは行きながら、すべての国民を弟子としなさい…」と翻訳できると述べていますが、興味深い考えではありませんか? 弟子を作ることは、教会の働き人や牧師だけの仕事ではありません。私たち全員の仕事なのです。私たちの仕事とは、日々の生活の中であちこちへ行きながら、人々を神に近づけることです。
私たちは、医者や技師や看護師や、また政治家にさえも、積極的に自分の仕事という使命を信じつつ、それに携わってもらわなければなりません。あまりにも長い間、「世俗の仕事」と「聖職」が別のものとして分けられてきましたが、主はそこに何らの区別も設けられません(御言葉の教師を除いては、ですが。そこには特別な責任があります)。私たちは主の言葉に耳を傾け、それに従うようにという召しを受けています。日々出会う人々に、主の恵みや愛によって手を差し伸べながら。
神は私たちが理解することではなく、むしろ従うことを求める。牧師だった頃、他の人たちにこれとまったく同じことを言ったことがあります。居心地が良く安定した地位にいる時に、そう言うのは簡単ですが、一体神は自分の人生で何をしておられるのだろう、と疑問に思っている時に、その言葉通りに生きるのは難しいものです。神は良いものや、「宣教活動」と銘打つことのできるような物事を含む一切のものを私から引き剥がすために、この時期を用いてこられました。
神が私を、幾つかの深く根づいた観念から解放されると、私に残るのはキリストとの関係だけです。主は私が、自分の真のアイデンティティー…主の内にあるアイデンティティーに留まるのを妨げる、あらゆるものから遠ざかるようにと、私に教えておられるのです。-ウィル・ラトリフ [2]
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私は、ずっと昔の人のものでも最近の人のものでも、過去の偉大なクリスチャンについて読むのが大好きです。主の導きに応じてどこにでも行く信仰の源となっ た、イエスへの愛について読むのが大好きなのです。こうした多くのクリスチャンの人生は、まだ小さかった頃から私の霊感となりました。
こうしたクリスチャンの偉大さの一番の要因として何が挙げられるか知っていますか? 彼らは皆、自分の人生に対する神の召しが何であれ、それに従順であった ために偉大となったのであり、その召しというのはまさに多種多様でした。皆が牧師や福音伝道師や作詞作曲者であったわけでもなく、皆が孤児院で働いたり、重い皮膚病 を患っていた人や貧しい人たちのためのミニストリーをしたわけでもありません。ビジネスマンや教師だった人もいれば、政治家、カウボーイ、母親だっ た人もいますし、祈りのミニストリーに召されていた人もいます。けれども、彼らは皆、あなたや私と同じような人間であり、宣教師であって、神の愛のメッセージをもって遣わされてい ました。
誰もが遠く離れた宣教の地に召されたわけではありません。自分の近所や出身地に留まるよう召された人もいます。また、ごく若い時に主のための仕事をするよ う召されていると感じた人もいれば、もっと年がいってから召された人もいます。イエスのために働きながら、若くして死んだ人もいれば、長生きをしてから死んだ人もいます。大いなる任務を果たした人もいれば、果たした任務が小さなものに思える人もいます。しかし、神に求められたことをしたので、彼らの人生は多くの人たちにとって祝福となりました。自分の人生における神の召しを精一杯果たしたゆえに、彼らは偉大だったのです。-マリア・フォンテーン
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私たちが、アブラハムのように多くの国民の父となるよう召されることは、おそらくないでしょう。[3] サムソンのような、邪悪な人々に裁きをもたらすほどの怪力の持ち主は、多くありません。[4] エステルのように、自分の民族の安全という大きな責任を任される人は、ごくまれです。[5] そして大抵の人には、信仰のために命や我が身を危険にさらすといった、ダニエルのような勇気も、[6] 当時知られていた世界全体に福音をのべ伝えた、使徒パウロのような精力もありません。[7]
私たちの大半は、むしろ福音全体を通して登場する、無名の人々に近い存在です。草の上に座ってイエスの言葉に聞き入り、パンと魚の食事を楽しみ、主の言葉を心に吸収して、人生を変えたいと願っている人々に。[8] 主は私たちに、多くのじっくりと吟味し、噛み締めるべき言葉を与えられました。それだけは確かです。
私たちは人生を価値あるものとするために、何も際立った派手な行動をする必要はありません。その秘訣とは、自分への神の召しと、それを果たす最善の方法とを見いだすことです。最も意義深い人生のいくつかは、無数の目立たない方法でなされる、ささやかな行為の上に築かれているのです。-アビ・メイ
2016年3月アンカーに掲載。朗読:ジェリー・パラディーノ