私たちのうちにいます神
God in Us
June 28, 2016
引用文集
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「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。」—詩篇 139:13–14(新共同訳)
中には、自分の何かを変えることができれば神への奉仕をさらに成功させられると考えている人もいるでしょう。おそらくは性格や知性や職種、創造力、才能、さらには外見でさえも。人々を感心させてキリストに惹きつける何かを見せることさえできたならと。ところが実際私たちは、効果を上げ実り豊かになれるであろう面が全く不足していると感じるのです。
サウルの後継となるイスラエルの二番目の王を選ぶとき、神は預言者サムエルをベツレヘムにあるエッサイの家に送られました。エッサイには8人の息子がおり、サムエルは長男であるエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」[1] と思いました。エリアブは背が高くがっしりして容姿端麗でしたが、神は彼を退けられました。その下にいるエッサイの6人の息子がサムエルの前を通りました。全員がこの召しにふさわしいように思えたのですが、神は彼ら全員を退けられました。サムエルはエッサイに言いました。「あなたのむすこたちは皆ここにいますか。」 エッサイが「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」と答えたので、 サムエルは言いました。「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません。」[2]
エッサイの末息子がダビデであり、彼は詩が大好きで、歌を書いたり竪琴を奏でたりした、素朴な羊飼いの少年でした。とてもイスラエルの王座に着くようには見えませんでしたが、神はサムエルにこう言われたのです。「立ってこれに油をそそげ。これがその人である。」[3] いずれ、ダビデは神の御心にかなった人であることがわかり、そこから王の地位はイスラエルの王すべてに引き継がれたのでした。ダビデは40年間、王として統治しました。
神は私たち一人一人をそれぞれ一人の人間として個人的に創造なさったばかりか、私たちの人生のために計画をお持ちです。私たちはもっと自信が持て、技能や知識があり、外交的になれればいいのにと願いますが、ありのままの自分を受け入れなければなりません。私たちは「恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている」からです。[4] 私たちにどんな欠点や失敗や弱さがあっても、それらは神にとって重要なことではありません。私たちのための神のご計画を成し遂げるのは、私たちではありません。私たちは単に道具であって、神はそれを通して働かれるのであり、私たちが弱いところで神は強いのです。私たちはただ、信頼し、従い、神に「私を使ってください」と言う、意欲ある心で携わらなければならないだけです。—チャールズ・プライス
平凡さの中にいます神
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」—コロサイ 3:23
神が平凡さを作られました。なぜ、その単調さが人々の魂の中に忍び込むようであるのか、そして彼らが自分たちは無であって、人の目にも神の目にも無であるかのように思い始めるのか、私にはわかりません。ドルカスはヘロデ家の娘ベルニケよりも重要な人でした。神の言葉には、平凡さの中に生きた登場人物が大勢見つかります。
神の言葉はこう言っています。「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」[5] 人生において上り詰めることを切望し、とにかく上へ上へと行きたい、知名度や名声がほしいといういかなる人にとっても、これはいわば飲み込みがたい言葉であって、彼らは毎日同じことを繰り返すのを忌み嫌います。しかし、神の言葉は真実であって、神の言葉には平凡さについての話が満ちています。神の言葉は平凡さについて書かれているのです。
私たちのほとんどには毎日おきまりの雑用があります。朝に鳴る鐘は平凡な日課をこなすよう私たちに呼びかけ、英雄的な行いや生きるだけの価値のあることをするチャンスなどないかのようです。
一体、私たちはいつ、日常生活の小さな務めを忠実に、時間通りに、周到に、謹んで行うことを正しく評価するようになるのでしょう。人の賞賛のためでなく、イエス・キリストの「よくやった」という言葉のために、また、給料をもらうためではなく、神がご自分の偉大なる世界において仕事をするために小さな場所を私たちに与えてくださったということゆえに。やらなければならないからでなく、そうすると自分で決めたから、また状況の奴隷としてではなく、主のことを考えて、キリストに解放された者として「人に対してではなく、主に対してするように」行うのです。[6]
さらに、平凡な生活のうねりのずっと下には人格の基礎が敷かれており、それはサンゴよりも美しく、朽ちることがありません。それは現在、人と天使たちの目の前で成長を続け、いずれ、一年中美しい緑に包まれ、パラダイスの歌声が響くエメラルドの島になるのです。ですから私たちは日々の生活の単調な仕事に不平を言うことに対し、とても注意しなければなりません。私たちは、永遠にわたって自分のものとなる人格を形成しているのですから。
仮に、あなたがありふれた能力しか持ち合わせていない人で、高い地位に就く確率は1000分の1程度しかないとしましょう。それならば、無駄な後悔や不平に人生を費やし、謙虚な仕事を主に対してするように、優しく朗らかな態度でもって喜んでしようとしないのは、哀れなことです。
神の御霊なしに偉大かつ重要なことをするよりも、取るに足らないことを、神のため、真理のため、他の人たちのために、偉大なる動機をもって行うことのほうが、もっと偉大なことです。一度十字架にかかって殉教するよりも、毎日辛抱強く千のトゲに苦しむ方が偉大です。目立たない人生は実際、より気高い人格や、クリスチャンの恵みを育む機会を与え、世界が偉大と呼ぶいかなる偉大さよりも多くの機会を与えるのです。—バージニア・ブラント・バーグ
御霊と足並みをそろえて
「わたしたちは御霊によって生きるのだから、御霊と足並みをそろえて進もうではないか。」—ガラテヤ 5:25(英語NIV訳より)
神の御心を外してしまったのではないかと心配している人がいると、私はいつもこのちょっとした格言を言って聞かせます。「あなたが神の御心の場所に行きたいと思っているよりも、神の方があなたを御心の場所に行かせたいと願っておられます。」 しかも神は私たちをとても巧みにそこに到着させるのです。だから息を深く吸って、リラックスしましょう。神はあなたの足取り一歩一歩を定めておられます。あなたがすべきなのはただ、「御霊と足並みをそろえる」ことだけです。ただ、御霊に導いていただき、神の促しに従うだけでいいのです。それは時として励ましの言葉を言うことだったり、また時には口を閉じていることだったりします。‥‥
神は私たちをぴったりの時にぴったりの場所に、戦略的に配置することをしておられます。私はそれを超自然的シンクロニシティと呼んでいます。そして、それは単なる偶然以上のものであって、摂理なのです。私が何か信じているとすれば、それは神が私たちの歩みを定められるということです。それは単に卒業式の日に列になって歩く時や、結婚式でバージンロードを歩く時のことだけではありません。私たちは足を踏み誤ることがあるでしょうか? もちろんあります。しかし、私は人生経験を積めば積むほど、天が定めた出会いを演出なさる神の能力に驚くのです。‥‥
神は一歩一歩すべての歩みを気にかけておられます。神が、天の定めた出会いをお膳立てなさっているのです。私たちはただ、神の導きに従い、多少の忍耐を働かせ、一度に一歩ずつ進めばいいのです。—マーク・バターソン
2016年6月アンカーに掲載。朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ。