神は決して、私たちの期待にそむかれない
God Never Fails
April 27, 2023
宝
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誰もが、人生において、物事が思った通りに行かずに、深く失望したという経験を持っています。そしておそらくは、神は私たちの期待にそむかれたのではないかと思ったりしたことがあるでしょう。これは絶対に神の御心だと自分で確信して、そのために一生懸命に励み、神はきっとその努力を祝福してくださると思っていたのに、また、神の助けを求めて真剣に祈っていたのに、何かの理由で、うまく行かず、私たちの計画が失敗したように思えることがあります。
たとえ、それがうまく行かなかったのも当然だと思えるような理由があり、状況を見れば納得がいくとしても、クリスチャンとして、次のような疑問がしばしば浮かぶことがあります。「でも、主よ、私はこれがあなたの御心だと思っていました。それなのに、なぜ奇跡的に介入して、なんとかそれを行なってくださらなかったのですか? なぜこれは失敗したのですか? あなたは私の期待にそむかれたのですか?」 そのような時には、投げやりになって、自分自身を責めたり、疑念を抱いたりし、さらには神を疑ったりしがちです。そして、神に対して反感を抱くのを許すと、心の隅で、神に対する小さな苦い根が育ってしまうことがあります。
そんな時、実際、ひどく失望し、落胆してしまうものですが、私たちは自分自身にこう問いかけてみるべきです。「何が悪かったのだろう。神は私たちの期待に背かれたのだろうか」と。主とその御言葉に信頼し、それに従おうと努める私たちにとって、その答えは、「神は決して私たちの期待を裏切られることはない」です。ですから、物事が悪い方向に進んでしまったり、思った通りの結果にならなかったりした時には、どこかで、何らかの点で私たちが失敗したか、神には別のご計画があって、万事を共に働かせて私たちの益にするつもりだという事実を受け入れなければなりません(ローマ 8:28)。
私たちの動機が正しくない時や、私たちが委ね、御心を求めていない時には、たとえ目的やプロジェクトが良い物であっても、それが失敗に終わることがあります。明らかに神の御心で、良いことなのに、主が祈りに答えられず、失敗したり、私たちが思っていたような結果にならなかったりするのを許されているように思えることがありますが、その理由として考えられるもう一つの大切なことは、神は何が私たちや周りの人たちの人生において最善の結果をもたらすかをご存知だということです。御言葉にはこうあります。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ 55:8–9)。
すべてのことが神のご計画に従って進んで行き、私たちが祈り求めた通りに物事が進行しているように思えても、たとえ結果がどうであれ、私たちはなお、信仰によって歩み、神に信頼し、神を信じ、神に従わなければなりません。神はよく、私たちの祈りに答えるために、状況を完璧なまでに準備してくださることがありますが、それでもなお私たちは、自分の分を果たし、神に信頼し、神に従い、その状況での御心に従うと決意しなければなりません。
神がまたとない機会を作って、「今しなさい!」と言われたなら、神に信頼し、従い、私たちの分を果たすというのは、私たちの責任です。このことは、他の人たちに証しし、良き知らせを分かち合っているときにもよくあてはまります。主は必死に真実を探し求めている人を私たちの元に導いて下さり、私たちの心の中に、その人にイエスについて話すようにという強い衝動を起こさせます。ただ、私たちが自分の役割を遂行することを怠って、またとないチャンスを逃すなら、主の目的は成し遂げられなくなってしまいます。けれども、何をすべきか主が示してくださったことを最後までやり通すなら、たとえどんな障害や困難があろうとも、神は私たちを通して御心を成し遂げられると、私たちは信頼できます。
神の御心を成し遂げるための忠実さが大切であるという一例が、聖書の使徒行伝 8:26-38に記されています。福音伝道者ピリポは、サマリヤ(イスラエル北部)で神の御言葉を説いていましたが、主の使いがピリポにむかって言いました。「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」。とても大きなことを計画されていた神は、そのためにピリポを使いたいと思われました。そして、聖書には、ピリポはそれに従ったと書かれています。「彼は立って出かけた」と。
彼がその道に出ると、「エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた人」がいました。このエチオピヤ人の高官は神を信じており、礼拝のためにエルサレムに上り、エチオピヤへの帰途についていたところでした。彼は自分の馬車に乗って、イザヤ書第53章を読んでいました。それは聖書全体でも、最も驚くべき預言の章の一つです。イエスが生まれる500年も前に記されたこの章に、イエスの人生と死が驚くほど正確に預言されているのですから。これは神の完璧なお膳立てでした。けれども、神の計画を成し遂げるには、ピリポはなお、自分の役割を果たさなければならなかったのです。
「聖霊がピリポに、『あの馬車に進み寄って行きなさい』と言った」。ピリポはこうも言えたはずです。「ちょっと待てよ、もう一度このことを考えてみなければ。相手は外国の重要な高官だし、まわりには、大柄で強そうな武装した護衛たちもいる。あの馬車に近づいたら、面倒なことになるかもしれない。下手すれば、殺されかねない」。しかし、彼はそんなことは言いませんでした。聖書には「そこでピリポはまっすぐ彼の所に駆けて行った」とあります。彼は馬車のところに真っ直ぐ駆けて行って、その財務官にこう尋ねました。「あなたは、読んでいることがおわかりですか?」
すると、そのエチオピヤ人は、自分にはわからないことを告白し、ピリポに説明してくれるよう頼んだので、ピリポはそれに応じました。その結果、そのエチオピヤ人は改宗してクリスチャンになったのです。そして彼はかなり影響力のある高官だったので、母国に帰った後で、エチオピヤ国民全体がキリスト教に改宗するきっかけとなったのです。すべて、ピリポが神の計画に従ったことで可能になったことでした。このことは、ピリポが本当に神に対して信仰を持っていたことを示しています。
時として、私たちが祈っても、答えられないことがあるように思えるのは、御言葉に対する私たちの信仰と信頼の欠如かもしれません。私たちは、神が本当に私たちと共におられ、神は御心と目的に従って、約束されたことを実行してくださる(ピリピ 2:13)という確信が十分にないのかもしれません。私たちはとりあえず、神が何かをしてくださると信じ、神の導いておられる大体の方向には従っているかもしれませんが、危機が訪れたなら、結果がどうであれ、私たちは神が共におられると信頼しつつ最後まで従って、自分たちの役割を果たさなければなりません。
私たちは、何かがうまくいくとか成功すると「確信」できるまでは、自分自身を神に委ねることをせずに、ただ慎重に進むことはできません。神が共におられると信じ、自分の道を神に委ねるなら、神はあなたの努力を支え、祝福してくださると信じなければなりません。信仰を行動に移すよう神から求められたなら、あなたは意図的に、躊躇心や疑いを捨てなければなりません。そうでないと、神のまたとない機会を逃すことにもなりかねません。
もし、そのまたとない機会、決断の瞬間に、私たちの信仰を、信じて実行するという行為に置くことができなかったなら、自分のすべきことをしそこなったのは私たちであって、神ではありません。私たちが信仰によって歩むなら、神にはすべてが可能であるので、御心と計画を成し遂げるために奇跡を起こすことができます。しかし、信仰がなければ、神の良き目的を達成することはできません。どうしてかと言うと、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル 11:6)。
もちろん、状況が「完璧」ではないと思えることもあるでしょう。その状況に新たな要素が入り込んで、達成するのを待ち望んでいたことや、到達したかったゴールの見通しが立たなくなるかもしれません。そのようなときには信仰が試されることがあります。その過程で、私たちは、たとえ正反対の状況のように見えても、神が私たちと共にいて、祈りに答えてくださると信頼することを学ぶのです。
アブラハムが100歳で妻のサラが90歳のとき、主はサラが男の子を産むと告げられました。ローマ4:19-22にはこうあります。「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである」。また、ヘブル11:11には、サラについてこう書かれています。「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである」。
現在の状況がどのように見えようとも、物事が私たちの希望や期待通りになろうとも、あるいは私たちの希望や夢がすべて失敗に終わったように見えようとも、神が決して失敗されないことを私たちは知っています。神は私たちと共におられ、神こそ、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせる」方であり、「それは神のよしとされるところ」(ピリピ 2:13)なのです。神は、神を愛し、神の目的に従って召された人々の人生において、万事を共に働かせて益とすると約束された方です。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ 29:11)。
1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2023年4月に改訂・再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ