神と二人きりになることは常に時に適っている
Getting Alone with God
Is Always in Season
February 12, 2019
引用文集
オーディオ・ダウンロード(英語) (8.2MB)
誰の生活も時に忙しくなるものですが、それは牧師も同じです。そして牧師の1年間にはある種のリズムがあり、それにはクリスマスや復活祭といった、仕事が普段よりも格段に忙しくなる時期も含まれます。
今がどんな時期であるかに関係なく、退いて自分の生活や職務のために神の助けを求めることは、常に時に適っています。
神が自分の人生や牧師職のために抱いておられるビジョンを、実現に至らせたいなら、絶えず神から聞かなければなりません。日々神から聞くことが、会衆を牧する者となるために満たすべき要求事項であると、信じていなければならないのです。それは単に、すべきことのリストに追加されたもう一つの課題ではなく、効果をもたらす愛情深い牧師になるために必要不可欠な要素なのです。
預言者ハバククはこう言っています。「わたしはわたしの見張所に立ち…。」[1]
彼が言いたいのは、「わたしは神と二人きりになろう」ということです。
神と二人きりになる場所は、どこでも構いません。ただ場所を見つければいいだけです。私はと言えば、戸外が好きです。
子どもたちがまだ小さかった頃、私は家の裏手の坂を下ったところに、実際に祈りの園を設けました。そこに退いて祈り、神に思いを集中させることができたのです。
神にしょっちゅう会いに行けるような、静かな場所を持つ必要があります。そこを特別で他とは異なる場所としましょう。
聖書はこう言っています。「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」[2] イエスは習慣的によくそうされていたのであり、あなたもそれを生活上の習慣としなければなりません。
新年が訪れるたびに、また新たな布教の季節が巡って来るたびに、神のビジョンを得て、神の導かれる声を聞きたいなら、日々神とお会いしなければなりません。
神にあなたの優先順序を定めて頂きましょう。
イエスは言われました。「神の御前でうわべを取り繕う誘惑に駆られないように、静かで人けのない場所を見つけなさい。できる限り飾らない正直な自分になって、ただそこに居なさい。あなたの思いは自分自身から神へと移り、神の恵みを感じられるようになるだろう。」[3]
神はあなたに会いたがっておられます。あなたをご存じであるのと同じように、あなたにもご自分を知ってもらいたいのです。あなたの人生や教会には、神が興味を惹かれないものなど何一つありません。—リック・ウォレン [4]
*
羊を養い、羊に平安をもたらしたいなら、羊飼いは自分自身の羊飼いまた創造主であられる主の御手から、それを受け取らなければなりません。
誰であれ、他の人々の世話をする人の主要な仕事とは、主とのつながりを保ち、主への賛美と交わりで一日を始めることです。まず何よりも、主の足下で休息することを学ばなければなりません。そのような穏やかさと、平安と、休息と、忍耐と、信仰と、愛を持つ秘訣とは、主にあって安らぐことです。主の御前で穏やかになり、主を賛美し、主を第一に求めるのです。そうすれば、それが他の人たちに伝わります。それは霊であり、あなたはその雰囲気そのものを伝えるのです。
だからこそあなたは、まずあの休息や、主にあって過ごす穏やかさや、甘美な平安の場所を見つけて、そこに腰を下ろし、主に向かって笛を吹き鳴らすまでは、何一つ行動を起こせないのです。その甘美な休息は、主に心から信頼しているしるしであり、それが忍耐をもたらしてくれます。あなたの霊が主と交わり、主と調和している時、他の人々にその平安が伝わります。私たちは自分たちが慰められたその慰めをもって、他の人々を慰めるのです。[5]—デービッド・ブラント・バーグ
*
福音書の随所に、イエスがご自身の養われている人たちから、さらに、ごく親しい友や信者たちからさえも離れて、一人きりで祈りの時、父との交わりの時を過ごされていたことが書かれています。主が宣教活動を始められる前には、御霊に導かれて40日間一人きりで断食と祈りをされたとあります。[6] どの信者を12使徒として選ぶかを決める前には、「イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」と書かれています。[7] バプテスマのヨハネの死の知らせをお聞きになった時には、「舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた」とあります。[8] イエスの話を聞き、いやされようとして群衆が集まってくると、主は時々、「寂しい所に退いて祈って」おられました。[9] 5千人に食べ物を与えるという奇跡の後には、弟子を舟に乗せ、「群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられ 」ました。[10]
イエスが神と二人きりになるために、他の人たちから離れるというのは、よくあることでした。極めて忙しく、切実に必要とされていた時や、大いなる御わざをなされていた時でさえ、父なる神と二人きりの時間を過ごすために、必ず皆から離れることをしておられました。
「夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。こうして、町中の者が戸口に集まった。イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。…朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」[11]
主と交わるために何とかして一人になる時間を設けるなら、気を逸らされることなしに祈って、主の御声を聞く機会が与えられます。一人でいるなら、他の人々に妨げられることがないとわかるので、神と深くつながることに思いを集中できるようになります。とりわけ、全てのコミュニケーション機器や電話、パソコンなどから離れることで、そこに静寂を加えるならば。当然のこと、主はどんな状況でも私たちに語ることがおできなので、主の声を聞くにはいつも騒音や会話から逃れなければならないというわけではありませんが、主を尋ね求め、主の声を聞く時に、静かな所で一人きりになるのが有益な時があるのです。—ピーター・アムステルダム
*
神と二人きりで過ごす密かな祈りの場所ほど、心を完全に新たにしてくれる場所はありません。私たちの気を逸らし悩ませる一時的な物事の数々を捨て去り、その神の御前で、神のものに心を留めるのです。そうすれば、神の変貌させる力が私たちに作用し始め、私たちは変わり、新たにされるでしょう。—バージニア・ブラント・バーグ
2019年2月にアンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ
音楽:マイケル・ドーリー