わたしについてきなさい!
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June 29, 2015
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう(マタイ 4:19)
デービッド・ブラント・バーグ
オーディオ・ダウンロード(英語) (16MB)
海辺を歩いておられた時、イエスは生涯で最も奇跡的な大漁を経験したばかりの漁師たちに、こう呼びかけられました。「わたしについてきなさい!」[1] それはあたかも、こう言っておられるようなものでした。「それ以上の大漁は、今後もうないだろう。それが極限だ。だから、今わたしについてきてはどうか。もっといいものをとる方法を教えてあげるから。」
「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」[2]
彼らはとても大きな信仰を持っていたので、すべてを捨ててイエスに従いました! 一体なぜ、見知らぬ人とその雑多な群れについていくことなどできたのでしょう? 主が真理を語り、それが神の御声そのものであると感じたからです。魚のにおいにまみれる漁師の息子たちが、まったく見知らぬ人物とどこかへ歩き去った結果、歴史に残ることをなし、永遠にわたって無数の人々を救うこととなったのです! 今となっては、そんなわずかな魚や舟や仕事を、数えきれないほどの不朽の魂と比べるなど、愚かしいことではありませんか? それらの魂は、その日これらの漁師たちが神を第一に置き、すべてをやめ、すべてを捨て、イエスについていくと決断を下したことによって、永遠に救われたのです。その成果を目にすることができる今では、彼らが正しい決断を下したことが、容易にわかります。
主に仕えるには、何らかの代価がかかります。主はこう言われました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」[3] 主はこれが、すべてのいましめの中でも一番大切な第一のいましめである、そしてまた、ご自分は妬む神であるので、他の何ものも神としてはならないと言われます。[4] 主はあなたの愛を望み、他のあらゆるものにまさってご自分を愛し、何よりもその御国を第一に求めてほしいと望んでおられるのです。
一心に献身して、イエスのために生きる素晴らしい手本は、あなたの説く説教よりも声高に語ります。このような献身的で全身全霊の見本を目にする時、往々にして他の人々は意欲を駆り立てられ、感銘を受け、励まされ、奮起させられます。そしてあなたが幸せに主に仕えていることに気づくのです。結局のところ大半の人は、そのために生き、死ぬ価値のあるような何かを捜し求めているのですから! 母もよく言っていました。「価値のないことのために生きるよりは、価値のあることのために死ぬ方がいい!」 あなたは価値ある何かのために、人生や自分自身をことごとく捧げ尽くすことのできるようなチャレンジを、探し求めていますか? なぜ中途半端で凡庸なものに甘んじてしまうのでしょう?
あの裕福な青年のようになってはいけません。誠実な気持ちで答を求めて駆け寄ってきた彼に、イエスはこう言われました。「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。」[5] それを聞いた青年はたくさんの資産を持っていたので、悲しみながら立ち去ったと書かれています。
最も悲しいのは、そもそも彼の富は、彼に幸せや満足を与えてくれなかったということです。さもなければ、イエスに駆け寄って答えを乞い求めたりはしなかったでしょう。それなのに、イエスが人生と愛と幸せへの答えを与えて、それはご自分と他の人々のためにすべてを捨てることだと言われた時、彼は富のもたらす悲しみで一杯のまま、離れ去って行きました。これまで一度も満足を与えてくれなかった自分の富の元へと戻って行ったのです。彼は裕福であったものの、それでもすべてを与えることの喜びという代価を支払うことはできませんでした! そしてこれはもちろん、彼が神よりも物質的なものを愛していたことを示しています。何という悲しい、悲しい物語でしょう。
それほど多くを持っていなくても、「たくさんの資産」であることがあります。それがあなたにとって、神よりもほんの少し大切なものであれば、それは「たくさん」なのです。ただ、あなたが神に仕えないよう、押しとどめておくことができる程度のものです。あなたが今の生活を捨てて主に仕えることを、思いとどまらせるに十分なほどに。そしてそれが名声であれ、財産であれ、楽しいことであれであれ、それを捨て去るのは容易なことではなく、多くを持てば持つほど、手放すのが難しくなります。しかし、あのすっかり興味をなくしたおもちゃを床に落として、指先にとまろうとしている美しい鳩に手を伸ばす少女の絵のように、自分の持っている良いものを、それよりもさらに良いものや最高のものを手に入れるために手放す気持ちがあるなら、神はあなたを大いに祝福されるでしょう。
イエスは決して、ついてくるよう誰かに強要されることはありませんでした。ただこう言われたのです。「わたしについてきなさい。」「きて見なさい。」 主に徴兵されるのではなく、自ら志願しなければならないのです。主は言われました。「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」[6] あなたがそうしたいと願うなら、主は喜んで送り出して下さるでしょう。主は心からの志願者を好まれるからです。
何といっても、イエスはご自分のすべてを与えられたではないですか。主はあなたのために、あなたの魂を救うために、地上にやって来て苦しみ、血を流されました。永遠にわたってあなたの命を救うために。イエスは私たちを救うために、喜んで死んで下さったのであり、私たちにも、ご自分が他の人々を救えるように、喜んで死んでほしいと望んでおられるのです。私たちや他の人たちのために死んで下さった主は、私たちにも喜んで同じことをするよう求めておられます。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」[7]
あなたはもう、自分のものではありません。「あなたがたは知らないのか。あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、キリストの尊い血によって、代価を払って買いとられたのだ!」[8] イエスは私たちを買いとり、その代価を支払って下さいました。今や私たちは主のものであり、主に属しています。何と言っても、イエスが私たちのためにして下さったすべてのこことを思えば、言うまでもなく、私たちはありとあらゆることで主に恩があるのです。ですから、当然イエスについていき、他のできるだけ大勢の魂を勝ち取ろうと努めるべきです。自分の命を救って下さった方のために喜んで死ぬのは、至極当然なことです。だからこそ、御言葉はこう告げているのです。「そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」[9] イエスに命を与え返そうと努めることは、単に私たちが「なすべき礼拝」にすぎません。主は私たちに、ご自分の命を与えて下さったのですから。
主は私たちを救うために死んで下さいました。私たちも当然、他の人たちを救うために自分を捨てるべきではないでしょうか? 事実、使徒もこう言いました。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」[10]
イエスご自身もこう言われています。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようにな る。」[11] そして主のために、その奉仕において「日々死ぬ」なら[12]、私たちは多くの実を結ぶでしょう。さらに多くのさまよえる人々に福音をのべ伝え、彼らを主に勝ち取る、私たちと同じようなクリスチャンという実を。そして主のもとに、はるかに多くの実が携えられるでしょう。
「それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。』」[13]
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」[14] あなたはイエスに自分の人生を「喜んで与える人」でしょうか?
デービッド・ブラント・バーグの著書より編集。初版は1984年2月。2015年に改定・再版。
朗読:ガブリエル・ガーシア・ヴァルディヴィエソ。