フォグランプ(霧灯)
Fog Lights
January 10, 2013
デービッド・ボリック
先日、ユダヤ教のラビであるエバン・モフィック師の投稿メッセージを読み、深くうなずかされました。最後の段落はこうです。
哲学者セーレン・キルケゴールはかつてこう語った。「人生とは、前向きに生き、後ろ向きに理解するもの。」 後ろを向いて人生を理解する力が、私たちにある。私たちはすでに起こったことを変えることはできないが、それがどういう意味をなすかは変えることができる。私たちが何を覚えておきたいかを選ぶことが、自分のなりたい人間になる助けとなる。1
良い例が、旧約聖書のヨセフです。ヨセフは兄弟たちにこう言いました。「ほら、皆は私に対して悪いことを企てたけど、神はそれを私の益となるように利用されたんですよ。周りを見たらわかるように、多くの人の命が救われるようにしてくださったんです。」2
モフィック師が語っているように、私も歴史を書き換え、「不快体験フィルター」とでもいうものを使って悪いものの多くをエアブラシで消し去り、たとえ残しておくとしても、以前ほど目立たないところに追いやっています。このプロセスは普通、私が意識的にすることではなく、ただ自然にそうしているのです。これは、ローマ8章28節の必然的な結果であり3、主のものであることによる数多くの特典の一つでしょう。
けれども、意識的に捉えなおす努力を要することもあります。自分が記憶の暗い側に向かっていると気づいた時には、思考回路を切り替えるようにします。自分が覚えていることに、とりわけ明るい面はなくても、嫌な思い出になっている相手や状況を好意的に解釈するか、あるいは、今現在は何も良いことは思い当たらなくても、だからといってローマ8章28の約束が無効になるわけではないことを自分に言い聞かせて、その部分を明るく照らすのです。
不愉快体験の中性化において、自分にとって非常に効果的だとわかった方法は、「誰々さんには本当に頭にきたけれど、自分だって、その人が頭に来るようなことをしたことはあるだろう。彼女とやっていくのは、自分にとってすごく難しかったけれど、彼女にとっても、私とやっていくのは同じぐらい難しかったことだろう」などと言うことです。これは、自然光がない時に、懐中電灯の明かりに頼るようなものです。太陽の光ほど明るくはなくても、つまずきそうになりながら暗中模索するよりずっとましです。この人工の光を掲げていけば、普通はその内に、以前は暗鬱だった部分に関する私の普通の自然な見方が前向きなものに変わっていくものです。
自分が「犠牲者」のように思える場面だけでなく、自分が「悪者」であった場面においても、この原則は効果があることに私は気づきました。実際、私の一番の突破口は、羊の皮の下に潜む自分の内のオオカミを見つけ、自分にも、ゆるすことが必要なのと同じぐらい、ゆるしてもらうことが必要だと気づいた時のことでした。
それと同じようなことをアレキサンドル・ソルジェニーツィンは言っています。それは、長い国外追放の後にロシアに帰還して各地を旅行し、彼をかつて国外追放にした人たちと同じイデオロギーを持つ人たちに会った時のことだったのです。彼の支持者はこれを批判し、彼がその類いの人たちと交わることに賛成しませんでしたが、ソルジェニーツィンはこう語りました。「どこかに邪悪な者がいて邪悪な行為を狡猾に行っており、ただ、そういう者たちを私たちから引き離して滅ぼすだけでいいことなら、物事は簡単だ。だが、善と悪を分かつ線というのは、人間一人一人の心に引かれるものだ。自分の心の一部を滅ぼそうなどという人がいるだろうか?」
人生を生きるというのはどれほど微妙なニュアンスがあって複雑なことかを、私はますます思い知らされています。私は、自分の物事の判断の仕方はたいてい非常に単純すぎたことを認め、多くの事柄について、真に正しい判断を下すには、自分は現在十分な知識を備えていないという現実を受け入れなければなりませんでした。逆説的ですが、そのおかげで私は、人々や状況について理解を深めるようになりました。
これは、薄暗がりでは私たちの周辺視力が中心視力よりも鋭いことに似ているかもしれません。自分の限られた認知能力を通して、人々や状況を理解しようという試みを抑えて、神の言葉を通して、彼らについて正しいと知っていることにもっと頼るようにすることにより、私はもっと理解できるようになります。
私の参加する徒歩競争にはたいてい、視力障害のある選手が数人、一緒に走ります。彼らが自分の視力に頼らなければならないとしたら、目の見えない人が杖で道をたたきながらゆっくり行くという典型的なやり方よりも早く進むことはできません。しかし、法律上失明とみなされるランナーは、手首のバンドに長さ30−40センチのテープをつけて、目の見えるランナーの手首とつながっており、二人は並走します。目の見えるランナーが導くわけですが、二人とも上手に走ります。
「私たちは、自分は知る必要のあるすべてを知っていると考えがちである。・・・だが、プライドの高い頭よりも、謙虚な心のほうが、私たちの助けになることがある。私たちは、神のみがすべてを知る方だと認めるまでは、決して十分に知ることはない。私たちはまだ物事が明確には見えていない。霧の中で目を細め、もやを通すようにおぼろげに見ている。だが、その内に霧は晴れ、太陽が明るく輝くことだろう! そうすれば、私たちはすべてが見えるようになり、神が見ておられるようにはっきりと見えるようになる。神が私たちのことを知っておられるように、私たちも神のことをじかに知るようになるのだ!」4
「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」5