惨めな世界で恵みを見いだす
Finding Grace in a
World of Ungrace
February 21, 2017
引用文集
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私は完璧ではない。恵みを受けるに値しないような、無数の過ちを犯してきた。私たちの誰もが至らない存在であり、そこに神の恵みの素晴らしさがある。—ティム・ティーボウ
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私は自分が、ひどく不完全な神のイメージを教え込まれて育ったことに気づきました。詩篇作者の言葉にあるような「あわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな神」[1] を知るに至ったのです。
恵みはそれを受けるに値しない人々に無償で与えられますが、私もその一人です。過去の自分を思い出すと、恨みを抱き、イライラして怒りっぽく、家族や教会から学んだ惨めさという長い鎖の、すっかり凝り固まった環の一つでした。今では自分なりに、ささやかな恵みの調べを奏でようと努めています。私がそうするのは、これまでに感じたどんないやしやゆるしや恵みの感覚も、すべて神の憐れみによってもたらされたのだということを、他の何にもまさって確信しているからです。—フィリップ・ヤンシー
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クリスチャンの信仰において重要なのは業績ではなく、神の絶え間ない優しさと愛です。イエスはたとえ話を通して、人が放蕩息子であり、高価な真珠であり、畑に埋もれている宝であると言われました。そして弟子たちに、神を「アバ」すなわちお父さんと呼ぶようにと教えられました。
キリスト教は元来、道徳規範や倫理観や、人生哲学ではありません。それは愛のある関係なのです。イエスは私たちを父なる神のもとへといざない、神と共に私たちに御霊を注いで下さいます。それは私たちを、より良い倫理観を備えたより善良な人間にするためではなく、むしろ真新しい被造物や預言者や恋人に、そして生ける神の燃え盛る御霊によって火を灯された、たいまつのような人間にするためです。
自責の念や憂うつな気分は、神とのつながりを妨げます。解決の鍵は、心砕けた自分を神に差し出して、愛して頂くことにあります。神があなたのなるべき姿ではなく、ありのままのあなたを無条件に愛しておられるという、途方もなく驚異的な唯一の真理を、あなたの精神生活の焦点としましょう。なるべき自分になっている人間など、一人もいないのですから。—ブレナン・マニング
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人生の意味。無駄に過ごした人生の数年間。人生で下されるお粗末な選択。人生の混沌に対する神の答は、「恵み」の一言に尽きます。—マックス・ルケード
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律法によれば、私たちはおのれの罪ゆえに裁かれ、苦しみ、死ぬよう定められています。イエスはその愛と恵みと憐れみにより、私たちを救うために来られました。私たちの罪のためにご自身を犠牲として捧げ、それによって律法を成就されたのです。またイエスは、神を愛し、隣人を愛することに、律法全体と預言者とがかかっていると言われました。
けれども、神の御霊と救いが恵みによって与える自由を、喜んで受け入れようとしない人々は、自分の主張が正しいと証明するために、しばしば律法や律法主義に戻って行きます。それと同時に、主が私たちに賜った恵みによる自由や解放にも、背を向けてしまうのです。
人は恵みによる救いを全面的に受け入れるか、自らの働きや律法を守ることによって、全面的に自力で救いを得ようとするかのどちらかです。一つでも守ることのできない律法があるなら、律法全体について責任を問われることになるからです。[2]
というわけで、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない!」[3]—デービッド・ブラント・バーグ
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一日に8時間働いて、その労働時間に見合った金額を受け取る時、それは賃金です。対戦相手と競い合い、その成績ゆえにトロフィーを受け取る時、それは賞です。長期に渡る献身や立派な業績ゆえに、それにふさわしい評価を得る時、それは褒賞です。しかし、賃金を稼ぐ能力もなく、賞を得ることもできず、褒賞を受けるに値しないにもかかわらず、人がそのような贈り物を受け取る時、それは神が私たちに賜る、身に余るような恩恵を表す良い例です。神の恵みと言う時、私たちはこのような恵みについて話しているのです。—G・W・ナイト
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私は今、すべての罪人に次のように言いましょう。ただしそれは、自分がこれまで生を受けた中でも最悪の罪人であると考えている人、という意味ですが。「主を見いだせる内に、主に呼び求めなさい。恵みの御座はあなたにふさわしい場所です。素朴な信仰によって、救い主に近づきなさい。主は恵みの御座そのものであられるのですから。」—チャールズ・スポルジョン
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空中ブランコのショーを見るのは、息を呑むような体験です。曲芸師の見事な技やタイミングに、ただただ驚嘆するのです。惜しくも失敗すると、あっと声が漏れます。大抵は下に網が張ってあり、曲芸師は落下しても、また跳ね上がってブランコに戻ります。
私たちはキリストにあって、空中ブランコに乗って生きているようなものです。全世界がそれを見て、こんな風に言えるようでなければなりません。「見てごらん、彼らの生き方を。互いに何と愛し合っていることか。夫が妻に、あんなにも優しく接している。しかも彼らは最高の働き手であり、隣人であり、学生じゃあないか?」 空中ブランコの上で生きるとは、つまりはそういうことです。世界が目にするショーとなるのです。
足を滑らせたらどうなるでしょう? 網は必ずそこにあります。主イエス・キリストの血が、私たちにあらゆる罪からのゆるしをもたらしてくれます。網も、空中ブランコの上に留まるための能力も、どちらも神の恵みによるのです。—フアン・カルロス・オルティス
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私には、恵みの神秘というものがまるで理解できません。それが自分たちのところに来てくれるけれど、その同じ場所に私たちを置き去りにはしないということ以外は。—アン・ラモット
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これは恵みについての物語です。寒い冬の日に、10歳の男の子が裸足で靴屋の前に立ち、寒さに震えながらショーウィンドウを覗いていました。一人の婦人がその子に近づき、何をしているのか尋ねました。
「神様に、靴を与えて下さいとお願いしていたんです」という答えが返ってきました。
婦人は男の子の手を取って店に入ると、その子のために靴下を5~6足持ってくるよう、店員に頼みました。それから、水を入れた洗面器とタオルが欲しいと言うと、店員はまずそれを持って来ました。婦人は男の子を店の奥に連れて行き、ひざまずくと、小さな足を洗って、タオルで拭いてやりました。
終わる頃には、店員が靴下を持って戻って来ていました。婦人は靴下を一足、男の子に履かせ、靴も一足買ってやりました。そして残りの靴下を紐で縛り、男の子に渡すと、その子の頭を優しく撫でて言いました。「さあ、坊や。これでずっと暖かくなったでしょう?」
婦人が向きを変えて立ち去ろうとすると、驚きで呆然としていた男の子はふいにその手を掴み、目に涙を浮かべて婦人の顔を見上げると、こう言いました。「あなたは神様の奥さんですか?」—著者不詳
2017年2月アンカーに掲載。朗読:ジェリー・パラディーノ。