失敗—敗北から生まれる勝利について
Failure—A Victory from Defeat
November 4, 2013
マリア・フォンテーン
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たとえ私たちが失敗しても、主は決して失敗されません。たとえ何度あなたが主を失望させたとしても、主はあなたを失望させられません。あなたを最後まで切り抜けさせて下さいます。失敗をした時にできる最善のこととは、主に思いを留めることです。主に信頼しなさい。神は絶対にあなたを助けて下さいます。あなたは祈っているし、私たちも祈っているし、神は私たちの祈りに答えられるのですから。そして何よりも、「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる」のです。[1]
ですから、心配する理由などありますか? 誰でもいつかは失敗します。それどころか、ちょくちょく失敗するのです。誰でも時々頭が少し混乱することがあるし、敵である悪魔は戦ってきます。ですから、そのことで自分を責めるべきではありません。事実、ある意味では失敗した時に喜ぶべきです。それについて何かの気持ちを抱くとするなら、喜ぶべきなのです。主は、私たちが失敗する事を望んでおられたのかもしれないのですから。そのような見方をしてみてはどうでしょう。主はおそらく、私たちが自分のことをあまりに高く評価しすぎないよう、失敗するのを許されるのでしょう。一度も失敗したことがなければ自己満足になりがちですが、失敗すればもっと謙遜になり、主に頼るようになります。
「神を愛する者たち・・には、万事が益となるように共に働く」のです。[2] 間違いや失敗のことで自分を責めたり心配したりしてはいけません。それとは逆の態度を取って、失敗から生まれる益のことを喜ぶべきなのです。あまりにも大きな失敗ではなかったことや、修復できない問題を起こしたりしなかったことを感謝できるでしょう。あるいは、度を超す前に主があなたの目を覚まさせて下さり、あなたがそこから教訓を学んだことを感謝できるでしょう。あるいは、その結果、壊滅的な劇的大問題が起こるようなことを主が防いで下さったのだと。
実際、害よりも益の方が多かったと思います。私たちはポジティブな観点で失敗を見るようにし、そこから生じる益を見るべきだと思います。ある意味で、失敗した時にそんなにもがっかりするのは、私たちの自尊心ゆえでしょう。とはいえ、全部自尊心のせいだとは思いません。私たちは間違った決断をした時には心からすまないと思い、そこから生じた問題や傷のことで落胆するからです。けれども、パウロはこう言いました。
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。—ヘブル 12:5–11
ちょうど、子どもに対する親のようなものです。子どもが何か間違いをした時、あなたはどれだけ傷つき、失望しますか? もちろん、多少がっかりするでしょうが、あなたは子どもが失敗したり、時々悪い振る舞いをしたり間違った決断をして当たり前だと思っています。それはすべて成長の一環なのです。子どもが何か間違ったことをしたからといって、あなたは子どもを見限ったりしません。子どもが完璧でないことを知っています。そのすべては生きていく上で起こることなのです。あなたが最初に抱いた落胆は、子どもが教訓を学び、正しいことをするのを見た時の喜びの中ですべて忘れ去られます。そして、神もご自身の子どもたちをそれとほとんど同じように見ておられます。私たちは学んでいるのであり、必ず間違いを起こすのだと。
もちろん、私たちは自分の間違いによって他の人を傷つけたり、主を失望させることは望みません。でも、主が私たちの自尊心を砕くことに働きかけようとされる場合は、私たちが失敗したり時々間違ったことをしたり、あるいはいつもいつも的を射てばかりいないのは良いことなのです。そういう時、私たちは、主だけが私たちを通して働くことができると気づくのであり、うまく行った時には主に栄光を捧げるからです。
時々、主は私たちを成功に至らせるのはご自身であることを示すために、私たちが失敗するのを許されます。私たちを謙遜に保つために、時に主は私たちに失敗をさせるのです。
自尊心は私たちの多くにとって大きな問題ですが、主はあなたの心をご存知であり、それが問題になるのを望んでいないことをご存知です。そして、主はあなたが変われるよう祈っているのをご存知なので、あなたの祈りに答えられるわけです。もちろん、主は必ずしも私たちが好む方法で、私たちが望むほど簡単に祈りに答えられるわけではありませんが、主は最善の方法をご存知であり、私たちが主にお願いする時、主はそれをかなえられます。主が最善だとご存知の方法でそれをなされるのです。
私たちは失敗をポジティブなこととして見る必要があります。主は私たちを地面に叩き付けて敵である悪魔にやりたいままにさせようとしているのではなく、実際、これらの教訓を与え、これらのことが起こるのを許されたことで、私たちを讃えておられるのだという、ポジティブな視点から見る必要があるのです。私たちはそのことで主に本当に感謝すべきです。がっかりするかもしれませんが、主に感謝すべきです。なぜなら、これらの教訓を学べるのは素晴らしいことだからです。最も大きな勝利は一見敗北と見えるものから得られることがよくあるので、時々失敗するのは祝福とさえ言えます。
ですから、顔を上げ、失敗についてポジティブであり続けましょう。主はあなたが謙遜になるよう、物事について幾分混乱するのを許されたのかもしれません。主がそういったことを起こされるのは、私たちにより大きな教訓を教え、そこからより大きな勝利をもたらされたいからなのです。
ですから、私が言おうとしているのは、ハッピーでいましょうということです。喜びなさい。失敗について心配したり自分を責めたりする必要はありません。主を見上げ、主に従うなら、それらはすべて共に働いて益となるからです。ただあなたに、間違いや失敗にぶち当たった時には、明るい面とポジティブな面を見るよう励ましたかったのです。主に信頼しているなら、主はここから、ネガティブなものよりももっとたくさんのポジティブなものをもたらして下さいます。
1985年2月初版 2013年11月改訂、再版
朗読:イレーヌ・クィティ・ヴェラ