立派に耐え忍ぶ
Enduring Well
July 4, 2018
ウィリアム・B・マグラス
私は主が祈りに応えて下さった、特別な瞬間を思い出すのが好きです。肝炎が再発して、深刻な容態に陥った時もその一つです。ちょうど妻方の親類と集まっていた時で、どうしても自分が病気であるという事実を、受け入れたくありませんでした。かなりの窮状に立っていることは、よくわかっていました。主にいやして下さるよう求め、そう祈ったすぐ後に、脱力感や気分の悪さや、その他の症状があったにもかかわらず、プールに飛び込んで泳ぎました。短時間力一杯泳いだ後で、私はとても驚きました。本当にいやされていたのです。即座に、しかも完全に。
数々の注目すべき迅速な祈りの答を覚えていますが、それだけではなく、自分にとって最高に素晴らしく重要な祈りの答は、決まって長いこと待ち続けた末に与えられたということにも、気づいています。単に答を待っているのではなく、待っている間も、勝利を確信しつつ問題に取り組むことを学びました。主が時折、私たちが望むほどすぐに祈りに応えて下さらないのは、おそらくそのせいでもあるかもしれません。私たちは人生において、長期に渡って悪戦苦闘する必要があります。それによって、さらに強くなることができるからです。
何らかの思い煩いや、起こっている問題を、何年間にも渡って、幾度となく主のもとに携えていき、丁重な姿勢で助けを求めた時のことを覚えています。それと同時に、不公平に思われる人間関係や、病気のいやしや、霊的な弱さといった同じような問題に、なぜ何度も繰り返し対処しなければならないのか、という疑問もぶつけていました。こうした数々の大切な問題に、主が答えて下さるのを見るのは素晴らしいですが、答を受け取るには、数年あるいは数十年もの、長い時間を要することがあります。
このように苦しみや災いを耐え忍び、その間ずっと前向きな考え方を維持することは、神から私たちへの教育の一環であると考えています。神は人格や強い心を形成することに関心をお持ちで、時としてそれに要するのは、長期に渡って苦しみを耐え忍ぶことだけです。苦難の水や炎の中を通り過ぎている時は[1]、聖書にあるように、神が私たちと共にいて下さいます。そして、困難を通っている時に、私たちは打ち負かされることなく、むしろさらに神に似た者、さらに寛容で、憐れみに満ちた人となるよう、鍛錬されるのです。牡蠣の中の苛立たしい砂粒が、やがて真珠へと育つように、目下の困難な状況も、私たちの心の中で変貌を遂げ、そこから美徳が生じるかもしれません。
有名な聖書の登場人物の中には、何年にも渡って、かなり多くの困難を耐え忍んだ人々が大勢いますが、彼らは後に、自分が通った戦いに関連した、特別な形で報酬を受けました。ヨセフは夢ばかり見ていたせいで、嫉妬した兄たちによって追放されますが、主が彼に与えられた夢は、後に現実となります。モーセは自分の民への熱意が高じて、エジプト人を殺し、命からがら逃げ出さなければなりませんでした。その後は隠れて暮らしていましたが、長い年月の後に神によって、エジプトに戻り、自分が遠い昔、そんなにも救いたいと望んでいた同じ民を、救う道具となるよう召されました。サラは若い頃、子どもを欲しがっていましたが、かなり年老いるまで子を授かりませんでした。そのことで、長いあいだ苦しんできたことでしょう。主が息子を授けると約束された時には、通常の妊娠適齢期を数十年も過ぎていたのです。長年の苦しみの要因に関連した形で、格別の恩恵を賜ることによって、主は彼女に大いなる栄誉を与えておられたようです。
それは今日も同じです。主は私たちの人生のもっと後の方で、驚くべき祈りの答を与え、最も切実な願いを叶えて下さいます。ヨセフやモーセやサラの時にされたほどの規模ではないにせよ、私たちに満足しておられることのしるしとして、何か素晴らしいことをして下さるかもしれません。主はかつて私たちが、主に仕え、主を喜ばせるために、大切なものを放棄しなければならかったことや、私たちが長いこと耐え忍んできた困難をご存じであられ、現世においてであれ来世においてであれ、私たちが大喜びするような方法で、必ず愛や感謝を示して下さるでしょう。
詩篇84:5–7には、神を自らの力とし、神の道に思いを留め、バカの谷を通り過ぎて、そこで泉を湧き出させた人の話があります。聖書学者らによると、バカという名称の場所は、発見されていないそうです。もしかすると、これは象徴的な谷で、神の人々が人生で通っている、困難な状況を表しているのではないでしょうか。主に問題について洗いざらい打ち明けたのに、その後も来る日も来る日も同じ戦いが続く時、人はどうするでしょう? そこに泉や井戸を掘り(主とのより親密な歩みを築き)、困難を勇敢に耐え忍ぶことを学びます。また、自分の考え方や思考パターンが、どう変わってほしいと望んでおられるのかや、これらすべてを通じて、どんな教訓を学ばせようと意図しておられるのかを、主に尋ねることもあるでしょう。そうすれば何年も後に、主が困難を取り去って、その困難に関連した、何らかの特別な報酬を与えて下さるのを見るかもしれません。
イザヤ58:11にはこうあります。「主は‥‥焼けつく地であなたの渇きをいやし‥‥。」[2] つまり何年も、何ヶ月にも及ぶ困難な時期にも、ということです。そしてイザヤ30:20–21には、こう書かれています。「たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」 長年に渡って深い井戸を掘り続けることを通して、神により近く歩み、神の声や導きを、よりはっきりと認識できるようになるのです。
「苦しみは、それなくしては学べないようなことを、生徒が自分自身や神や人生について学ぶ学校です。苦しんでいる人は、自分が学んだ貴重な教訓を振り返った時、それらすべてを定められた方に、こう告げることができます。『あなたは善にして善を行われます』と。」—ティモシー・ケラー