死ぬときの恵み
Dying Grace
April 13, 2022
ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
私も人生の晩年にさしかかり、死が話題に上がることが以前よりも多くなりましたが、それは必ずしも楽しい話というわけではありません。たしかに、主を知るクリスチャンとして生まれ変わった人にとって、死は大きな問題ではないはずです。しかし、私たちは皆人間ですから、不安で懐疑的になることはあります。
私自身も、この世を去ることについて恐れや疑いはずっとありました。この不信仰の時代にあって、天国の栄光に関する信仰を保持するのが難しいこともあります。でも、そんなときには、使徒たちのことや、死後の世界に関して聖書にある約束をしっかりとらえて離さず、平安をもって死んでいった、神を信じる歴史上の偉大な人たちのことを考えるようにしました。
そして、これまで何世紀にも渡り、数え切れない人たちによって試され証明されてきた、聖書に記された真実に、私は答えを求めました。そのような言葉を自分の内に吸収し、それについて瞑想すると、心に平安が訪れたのです。そこで私は、死に臨むときのよりどころとなる聖書の言葉への信仰を築くことによって、しっかりとした心構えをしておいたほうがいいのだという結論に達しました。
どんな場合にも言えることですが、何か疑いがあるなら、それを解決して消し去るには、神の言葉に答えを求めるのが一番です。私はさまざまな聖句、特に新約聖書にある言葉によって、大いに慰められました。たとえば、イエスがマルタに言われた次の言葉です。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25–26) この言葉は、信仰を大いに強めてくれます。特に、歴史的に疑いようのない復活を遂げた方であり、卓越した真理であるイエスが言われたことなので、なおさらです。イエスはさらに、マルタに(いえ、実際には私たち一人ひとりに)こう質問されました。「あなたはこれを信じるか。」 イエスが穏やかにこの質問をされるのを聞いて、私は気持ちが楽になりました。私はと言えば、もちろんこう答えます。「はい、主よ、信じます。」
いつか死に近づくとき、私はイエスに目を留めるようにします。イエスは「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)、また、「よみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)と知っているのですから、何を心配する必要があるでしょうか。
初期の弟子たちは、イエスの復活の目撃者であり、イエスの昇天後、使徒行伝の多くの箇所に記録されているように、いたるところで復活の話をして回りました。
使徒パウロの言葉や、死に対する考え方もまた、私を大いに励ましてくれます。パウロは死を恐れることなく、むしろ楽しみにしていました。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」(1コリント15:55)
パウロが述べているように、復活したキリストは、永遠の命の希望です。もしあなたが死について不安を感じているなら、パウロからコリントの信徒たちへの第一の手紙15章を読んで、死後の人生を確信できるよう信仰を強めることをお勧めします。
何年か前になりますが、母はこの世を去る前の数ヶ月間、そのことをかなりポジティブに捉えており、死後の人生に関して大きな平安を抱いていました。母は自分がたくさんの間違いや失敗を犯してきたことを知っていたけれど、すでに神と和解し、その身を神に委ねていたので、心配はしていませんでした。言うなれば、そのときすでに主の御腕の中にいたわけです。天国へ行くのが楽しみで、心待ちにしていました。母のそんな手本のおかげで、私の恐れも和らいだようです。
ドワイト・L・ムーディーは、死について多くを語っています。誰かから、彼には「死ぬときの恵み」があるかと聞かれた際、賢くもこのように答えました。「ありません。あるわけがないでしょう。まだ死にかかってもいないんですから。」 だから、死ぬときの恵みがまだないとしても、心配はしないでおきましょう。神は、私たちが必要とするときにそれを与えてくださいます。もしあなたが、その日が来る前に何か片付けておくべきことがあると思うなら、それを神に打ち明け、神と和解しましょう。そして、もしまだイエスを受け入れていないのであれば、あなたの心に入ってくださるようイエスにお願いし、あなたの救い主として受け入れてください。そうすれば、神があなたを天に召されるとき、神の腕の中に飛び込んでいくことができます。
最後に、ドワイト・L・ムーディーの言葉をいくつか紹介して締めくくりたいと思います。
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多くのクリスチャンは、将来を心配しがちのようだ。死ぬときに充分な恵みがないように感じている。それよりも、生きるために充分な恵みがあるほうがずっと大切だというのに。今のところ、私にとって、死はさほど重要ではないように思える。死の間際になれば、そのときには死ぬときの恵みが与えられるが、生きるためには、死ぬときの恵みを必要としないのだから。
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イーストノースフィールドのD・L・ムーディーが死亡、という記事を読むときが来ることだろうが、そんな言葉を信じてはいけない。そのときには、私は今よりも生き生きとしているのだから。ただ、ここより上にある場所に移っただけのことだ。私は、この古い土くれの住まいを出て、朽ちることのない家に引っ越し、死が触れることも、罪が汚すこともできない体を持つようになる。主の栄光の体と同じような体を。
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私の肉体は、1837年に生まれた。私の霊は、1856年に生まれた。肉によって生まれたものは死ぬが、霊によって生まれたものは永遠に生きる。
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地は遠ざかり、天国が目の前に広がる。これが死だと言うのなら、何と素晴らしいことか。ここに谷間はないのだ。神が私を呼んでおられる。そろそろ行かなければ。