心配はやめてハッピーになろう
Don’t Worry, Be Happy!
March 19, 2024
引用文集
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私には得意なことがいくつかあります。掃除や整理整頓もできるし、仕事を分担したり、見事に計画を立てたりすることもできます。料理だってお金をとれるぐらい得意だし、そこそこ文才もあります。でも、まだどうやって売り込めばいいのかわからないスキルがひとつあって、それができたら絶対にお金持ちになれると思います。それが何かというと、かなりのスキルとクリエイティビティを持って心配できることであり、それにはきっと何らかの価値があるに違いないと思うのです。
「心配性」のプロをチームに加えたいと思っている人を誰か知っていますか? 私だったら企業や個人にとって起こりうる最悪のシナリオや結果をすべて想像することができます。実際に起こりうることもそうだし、まだ映画にもなっていないような突拍子もないことだって心配できます。このスキルを是非とも仕事に生かしたいものです。なぜなら、今のところ、このスキルはむしろ障害であり、私の平安と安らぎを奪い、多くの時間とエネルギーを浪費させているからです。
神の言葉には「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」とあります(マタイ6:34)。別の箇所には、「何事も思い煩ってはならない」とあります(ピリピ4:6)。これらの教えは、私の心配性と相反しています。では、聖書がこれほどはっきりと心配するなと言っているのに、私はどうしてこうもやすやすと心配してしまうのでしょうか。
正直に言うと、心配することで人生から喜びが奪われてしまったことが何度もありました。起こってもいない悲劇を思って泣いたこともあります。現実化したことのない困難に激怒したこともあります。実際には起きていない問題でストレスになったこともあります。私もきっとマーク・トウェインのように、こう言えるようになるでしょう。「私は年を取り、多くの悩みを知ったが、そのほとんどは一度も起こらなかった」。
私の頭がおかしいということを納得してもらおうとして、このような話をしているのではありません。私の愚かさから学んでもらうために、話しているのです。そう、私は自分の愚かさから学んでいます。泣いては心配し、思い悩みながら眠れぬ夜を過ごしたけれど、朝目覚めてみれば、悲劇とは無縁の生活を送っているのですから、時々自分はなんて愚かなのだろうと感じるのです。
嬉しいことに、私はこのサイクルを十分繰り返してきたことで、それが無益で役に立たないことに気づき始めました。まだ心配する習慣を断ち切ったとは言えません。ただ、… 心配するのをスパッとやめるべきだと思い始めたのです。
けれども、実際、心配しないようにするのは本当に難しいことです。人生はかなり厄介で予測不可能です。そう思いませんか? 人生のあらゆる苦難が迫っているのに、心配しない人なんているのでしょうか。
以前、こんな短い詩を読んだことがあります(実は何度も読んだので暗記してしまいました)。
明日は私のあずかり知らぬことであり、
私の救い主が配慮していてくださる。
それが悩みと悲しみに満ちたものであったとしても、
主は私が耐え忍ぶのを助けてくださる。
明日は私のあずかり知らぬことなのに、
なぜ、その重荷を負うべきなのか。
明日の恵みと強さは前借りできないのに、
なぜ、その心配を前借りすべきなのか。[1]
素晴らしいアドバイスだと思いませんか? 私の心配も、あなたの心配も、私たちの未来には何の役にも立ちません。私が心配して問題が解決されたことはありません。心配が成し遂げたことは、今必要とされる力を奪うことだけでした。あなたの心配も、きっとそれぐらいのことしかできないことでしょう。
私は、心配しなくなるための素晴らしい瞑想テクニックを身につけたとは言えません。心配やストレスに対する衝動を取り除くような方法を、何かひとつ知っているわけでもありません。でも、デール・カーネギー[2] の言葉で役立っていることがいくつかあります。
起こりうる最悪の事態とは何かを自問し、自分の中で折り合いをつけなさい。
それをするのは少し怖いかもしれませんが、これは心配を捨て去るために私が見つけたベストの方法のひとつです。デールの言葉を借りれば、「起こりうる最悪の事態を受け入れれば、失うものは何もなく、全てが得るものとなります。それが自由の始まりです」。このテクニックは大いに助けとなりました。恵みを求めて祈ることができるし、神は決して私を失望させたことはなく、これからも失望させることがないと信頼できるからです。… たとえ 「最悪の事態」が起こったとしても。
状況を改善するために、実際にできることをし始めなさい。
何らかの行動を取れる場合もあります。例えば、電話をかけたり、メールを送ったり、覚えておかなければならないことや気をつけなければならないことを書き留めたり、また、特に祈りにおいて思い煩いを主に委ねたり、といったことです。
私が一番心配する時間は、夜です。ただ横になっているよりも、起きて何かすると楽になることがあります。(日中は、忙しくしているので、心配事に対処するのがもっと簡単です)。
これらのステップを適用すると、驚くほど心配事を捨て去ることができ、少なくともそれを寄せ付けないようにすることができました。
私の心配事はあなたのそれとはおそらく異なるでしょう。けれども、どのような問題であろうと、心配することは、私にとってそうであるように、あなたにとっても時間の無駄です。私はそれを人生から取り除きたいし、あなただってきっと人生から取り除きたいことでしょう。実際に主を信頼して幸せになれるのに、心配したりストレスになったりしていいわけがありません。
どんなに状況が悪くなったり困難になったりしても、いつだって感謝すべきことがあり、人生を生きる価値あるものとする何かがあります。それは、決して変わることのない真理であると、私は固く信じています。
心配するという習慣をなくすことができれば、多くの時間と労力を節約できます。そして、その時間と労力を、自分の未来を築いたり、本当に大切なことに取り組んだりするために使うことができるのです。
最後にボビー・マクファーリンの有名な歌の歌詞で締めくくりたいと思います。「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー(心配はやめてハッピーになろう)」。[3] —マラ・ホドラー [4]
*
マタイ6:31-32にはこうあります。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」。
仕事中毒の多くは心配に根ざしています。あなたは、自分から奪われることのないものに安心を置かなければなりません。神はあなたの必要を知っておられ、あなたの必要を供給できると信頼しましょう。
あるクリスチャンの男性は、何年も悩んだ末、ついにこう言いました。「神よ、私のビジネスをあなたに捧げます。これからはあなたがCEOです。私のキャリア、つまり利益、報酬、昇進は、あなたの担当です。今、それはあなたのビジネスであり、あなたが経営されるのです」。
翌日、彼の会社の倉庫が全焼しました。そこには、倉庫の外で微笑みながら立っている彼の姿がありました。彼はこう言ったのです。「昨夜、私は自分のビジネスを神様に委ねました。もし神様がそれを燃やしたければ、それは神様の決めることです」。
彼は新しい視点を得たのです。「神なら何とかしてくださる。焼き払ったのと同じように、神はまたそれを起こすことができる」。それが信頼というものです。
イエスは、マタイ11:28と30でこう言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。… わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
イエスは、負いやすく、軽い荷のライフスタイルを与えるために来られました。もしあなたが、負いきれないほどの重荷を負っているなら、それは神からのものではありません。
おそらく、あなたは長い間そういったライフスタイルをしていて、他の生き方を知らないのでしょう。くたくたに疲れているのに、やめることができません。神はそんなあなたに言葉をかけておられます。「わたしに信頼しなさい。わたしがあなたを世話するから。あなたのプレッシャー(心配事)をわたしの平安と交換しなさい」。—リック・ウォレン [5]
*
心配というのはおもに、物事を考えるタイミングを間違えているという問題だ。わたしはあなたの脳に、自分の思考を観察するための驚くべき能力を組み込んだ。だから、自分の思考をモニターし、それについて選択することが可能なのだ。
精神的、感情的エネルギーを無駄にしないためには、タイミングがとても重要だ。例えば、ベッドで横になっている時など、間違ったタイミングで何かを考えると、それについてすぐに心配し始める。だからこそ、思考をモニターすることがとても役に立つのだ。心配の深みにはまるまで待つのではなく、不安でネガティブな思考を中断し、主題を変えるといい。
心配を最小限に抑え、賛美を最大限にするよう、心をしつけてほしい。これには継続的な努力が必要だが、それが自由への道であることに気づくだろう。何かについて間違ったタイミングで考えていると気づいたら、つまり、それについて何もできない時に心配して否定的なことを考えていると気づいたら、速やかに行動を起こしなさい。「今はダメだ」と自分に言い聞かせ、心を別の場所に向けなさい。あなたの思考を向けるベストな方向は、わたしである。わたしへの信頼、わたしへの愛を表すことで、わたしに近づきなさい。これが礼拝である。
明日のことを心配することを拒み、今をより余す所なく生きようと努めなさい。努力とは、何かに真剣に取り組み、エネルギーを注ぐことであり、それには通常、多大な苦労が伴う。わたしの臨在において現在進行形で生きたいなら、絶えず努力を払わなければならない。わたしを、あなたの日常生活において追い求めるべきもっとも大切なものにするよう、強く勧める。
心配しそうになる誘惑に抵抗することは不可欠だ。あなたは罪と葛藤に満ちた堕落した世界に生きている。心配を引き起こそうとする物事に欠けることはないだろう。しかし、「苦労はその日その日に十分にある」ことを忘れないでほしい。わたしは、あなたがその日に遭遇する困難の量を注意深く測っている。あなたがわたしの助けによってどれだけのことに対処できるかを正確に知っている。そして、すぐにあなたを強め、励まし、慰めることができるよう、いつでもそばにいる。
わたしとの親しい歩みを追い求めることが、今を生きる最善の方法である。あなたの思考がさ迷う時は何度でも、わたしのもとに思考を引き戻しなさい。愛する人よ、喜びをもってわたしのところに戻りなさい。「わたしはあなたのことを大いに喜び、高らかに歌ってあなたのことを喜ぶ。」—イエス [6]
2024年3月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス 音楽:マイケル・フォガティ
1 “Tomorrow,” by Major D. W. Whittle.
4 若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更
6 Sarah Young, Jesus Today (Thomas Nelson, 2012).