あきらめないで! 忍耐と粘り強さの物語
Don’t Give Up!—Stories of Perseverance
March 23, 2021
引用文集
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モファット夫妻
ある年配の説教師が、日曜の朝、礼拝の前に執事の一人から非難を受けました。「牧師さん、あなたの説教には何か問題があるに違いありません。この一年、教会に加わったのはたった一人、しかもまだ少年ですよ」。牧師は目を潤ませ、細い手を震わせながら聞いていました。「それは分かります。しかし、神は私が務めを果たそうとしていることを知っておられます」。その日、牧師は重い心で会衆の前に立ちました。
皆が帰った後、例の少年が牧師のところに来て、こう尋ねました。「もし僕が一生懸命勉強したら、伝道師になれると思いますか? もしかしたら宣教師に?」 またしても牧師の目に涙があふれました。「ああ、これで痛みが癒されました。ロバート、私は今、神の御手を見ました。神の祝福があらんことを。そう、君は伝道師になるでしょう」。
それから何年も後、ある年老いた宣教師がアフリカからロンドンに戻ってきました。彼の名前は畏敬の念を込めて語られていました。貴族たちは彼を自宅に招き、彼はイエス・キリストの教会に多くの魂を増し加え、アフリカで最も粗野な酋長たちにさえ手を差し伸べたのです。彼の名はロバート・モファット、何年も前の日曜の朝、スコットランドの古い教会で、あの牧師に語りかけたロバートでした。
ロバート・モファットとメアリー・モファットは、ベチュアナランド(現在のボツワナ)で10年間、自分たちの道を照らす一筋の励ましも見ぬまま、忠実に働き続けてきました。報告できる改宗者は一人もいませんでした。ついに宣教委員会の役員たちは、この活動を続けるのが賢明であるのか、疑問を抱き始めました。しかし、この献身的な夫婦にとって、持ち場を離れるという考えは大きな悲しみをもたらしました。彼らは自分たちの働きには神がついておられること、その時になれば人々はキリストに向き直ると確信していたからです。
彼らはそのまま留まり、1年か2年の間は、まったく光が見えませんでした。ある日、イギリスの友人からモファット夫妻に贈り物があるとの連絡があり、何がいいかと尋ねてきました。やがて主が彼らの働きを祝福してくださると信じていたメアリー・モファットは、「聖餐式セットを送ってください。すぐに必要になると思いますから」と答えました。
神はその親愛なる女性の信仰を称えられました。聖霊は村人たちの心を動かし、まもなく6人の改宗者からなる小さなグループができ、その土地で最初のキリスト教会が形成されました。イギリスから輸送された聖餐式セットの到着は遅れていましたが、ベチュアナランドで初めて主の晩餐を祝う前日に、それが到着したのです。
主よ、私たちが忠実であるように助けてください。そして、その結果をあなたに委ねるための恵みをお与えください。—作者不詳
神の供給
私の友人が、様々な教会から来たリーダーたちが活動を報告するミーティングに出席しました。南アメリカから来たスピーカーは、神がある場所に教会を建てなさいと告げたことを話してくれました。ある時点で、資金難のため、建て続けることが難しくなりました。その上、予想外の問題がいくつか起こり、牧師はこのまま続けていくべきかどうか疑問に感じたそうです。疑問を感じたのは彼だけでなく、何人かの信徒たちもそうでした。けれども神に尋ねると、このプロジェクトをやり遂げるよう強く支持されました。エルサレムの城壁を建てたネヘミヤのように、これらの状況にがっかりしてはならないと告げられたのです。
というわけで、この牧師はたとえどんなに厳しい状況になっても神に従うと決意しました。するとその直後、彼はプロジェクトを支援すると約束してくれたものの後回しにしていた支援者から電話を受けました。その人はプロジェクトを完成されるのに必要なちょうどの額を寄付してくれたのです。彼は「私たちはよくしてしまうのですが、テストや困難は神の御心から外れたしるしとして見るべきではありません」と告げて話を締めくくったのでした。—スティーブ・ハーツ
バスの運転手
ノーマン・ガイスラーは子供の頃、近所の子供たちに誘われて聖書の勉強会に通っていました。同じ教会で400回に及ぶ日曜学校に出席したのです。毎週、忠実に送迎バスの運転手が迎えにきました。毎週欠かさず教会に通ったのですが、彼がキリストに献身することはありませんでした。
そして高校3年生の時、教会への送迎が400回を超えた頃、ついに彼はキリストに人生を捧げたのです。もし、そのバスの運転手が395回の日曜日でガイズラーを見限ったとしたらどうだったでしょう。バスの運転手が、「この子は霊的にまったく成長していない。時間の無駄だ」と言っていたら、どうなっていたでしょう。—マックス・ルケード [1]
待つだけの価値
忍耐強いダビデと忍耐強いイエスの手本は、私に大きなインスピレーションを与えてくれています。私はかなりせっかちな人間です。例えて言うなら、疾走する労力は嫌いではありませんが、マラソンの退屈さには耐えられません。できるだけ早く目的地に着きたいのです。けれども、諺にもあるように、「人生は短距離走ではなくマラソンである」。長く、暑く、退屈な競走は、私の忍耐の筋肉を鍛えてくれます。その鍛え上げられた筋肉があるからこそ、これからの困難な競走にも耐えられるのです。そして、大変ながらも待ち続け、忍耐を持ち続けたからこそ、最終的にゴールを切ってメダルを受け取るとき、それは私にとってより大きな意味を持つことでしょう。
メダルはなぜ彼らにとってそれほど価値があるのかを、アスリートに尋ねてみたら、「最高級の素材を使っているから」とか、「芸術的な刻印が好きだから 」とは答えないと思います。きっと、「私のメダルは計り知れない価値があります。なぜなら、私はそのために血と汗と涙を流したから。そのために戦いました。待ちました。そのために苦しみました」のように答えるでしょう。人生の状況により、カタツムリの歩みを強いられているように感じるとき、私にできる最善のことは、忍耐強く、自分の役割を果たし、神が約束してくださったメダルに目をとめ続けることであるのを忘れないようにしています。
聖書は、最後まで耐え忍ぶ者は命の冠を受けると約束しています。[2] それは確かに、忍耐するだけの価値のあるメダルです!
ヤコブ1章には、忍耐強く耐え忍ぶようにと、いつも私を励ましてくれた聖句があります。「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」[3]
「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人」—それは間違いなく待つだけの価値があります。—エルサ・S
2021年3月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス
音楽:ジョン・リッスン