生涯の弟子
Discipleship for Life
August 19, 2013
ピーター・アムステルダム
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このどれをとっても簡単ではありませんが、それが、イエスの描いた弟子像です。
ある意味、弟子であることは、プロのスポーツをするようなものです。例えば、バスケットボールをする人は結構います。時々、シュートの練習をする人もいれば、友だちとプレーしたり、そこら辺にいる人たちと試合したりする人もいれば、アマチュア・リーグでやる人もいますが、プロでする人と言うのはほんの少数です。バスケットボール・プレイヤーのすべてがプロなのではありません。違いは何でしょうか? バスケットボールをする大半の人にとって、それは単に遊びや運動であり、空いた時間にやるものです。プロの選手にとっては、自分のスポーツは、人生の目的です。
プロであるには、そのスポーツにすべてをかけなければなりません。仕事の日は、トレーニング、練習、試合、試合のための移動に使われます。オフシーズンでもトレーニングや、ボディービルディング、ランニングをして、良いコンディションを保ちます。タバコや過度の飲酒、身体に悪いことはしません。そういうことをすると、プレーの能力に影響するからです。試合のためにどこかに行く時には、家族とも離れ離れです。チームのためにプレーし、ユニフォームを着ます。参加を求められるイベントもあります。常に体調を整え、スキルを上達させるために一生懸命やることが求められ、それをしないなら、コーチが口出しをし、ワークアウトをさせます。チームでトラブルを起こしてばかりいるなら、あるいは、お粗末なパフォーマンスばかりしているなら、たいていは辞めさせられるか、トレードで別のチームに出されます。ルールを破ると罰金を科され、出場停止となるか、解雇されます。
では、プロの選手はどうしてそれをするのでしょう? 単に名声やお金のためでしょうか? 彼らは、その競技を愛しているからだと私は思います。名声やお金など、他の報酬や益もありますが、彼らの大半は、それが大好きだからプレーするのだと思います。制約の多いライフスタイルや、厳しい訓練、他の人がしていることを自分はできないという犠牲を払うことにも耐えるだけの気持ちがあるのは、競技が大好きであることが理由なのです。
弟子であることを選ぶ人は、どうしてそうするのでしょうか? どうして、弟子に求められるすべてに耐えようと思うのでしょうか? どうして、弟子に要求される犠牲を払うのでしょう? それは、主を愛しているからです。主への愛ゆえに、弟子としての人生を生きようとするのです。簡単ではありません。軽い気持ちのクリスチャンではなく、生涯の弟子なのです。
私たちの多くにとって、クリスチャンとしての奉仕が職業です。それが私たちの仕事であり、私たちはそのために生きています。私たちはプロとして、プロの運動選手と同様に、体調を整え、スキルを向上させ、コーチである主に委ねなければなりません。
実際、プロのクリスチャンであるには多くの要求事項があります。多くが求められ、しばしば困難や犠牲を伴いますが、それこそ、弟子になるために必要なものであり、それは変わることがありません。それは、最初からファミリーの基盤であっただけでなく、聖書の中のイエス自身の言葉でもあります。
弟子である人は、自分の霊にとって良くないものがあることを認識しなければなりません。するのが好きで、したいと思っていることでも、私たちは、クリスチャンであり、弟子であり、御言葉を行う者であるがゆえに、自分にとって良くないものをしないという選択をすべきです。[2]
私たちの誰ひとりとして完璧ではなく、誰もが欠点があり、罪を犯します。誰でも、自分のために良くなくて、主への奉仕の助けにもならないけれど、それでも好きなことがあるものです。私たち一人一人が直面するのは、それについてどうするかという質問です。それが自分の徳とならないか、霊的に鈍感にさせる、身体的に害を及ぼす、あるいは、人生におけるプラスの力にならない場合、また、御言葉に、それが私たちにとって良くないと書かれている場合、私たちは選択をしなければなりません。構わずそれをするでしょうか? あるいは、それをしないようにするでしょうか?
弟子として私たちはそういうことをしないよう決意すべきです。イエスが御言葉の中で詳しく説明された、弟子としての規範にそって生きようとするのは、時に、自分のしたいと思うことができないということです。それは、弟子たることの一部です。
特定の絶対的なことについては、柔軟にはなれない場合もあります。例えば、永遠の救い、これは絶対的なことです。しかしすべてが絶対的ではありません。一つの問題は、厳格に、すべて黒白はっきりさせ、グレーの余地を残さないほうが簡単だということです。黒か白かの道を行くなら、状況を判断するのは簡単であり、何が正しく何が間違っているかを言うのも簡単です。けれども、人生の多くのことはそれほど単純ではありません。たいてい、ほぼどんな状況にも多くのグレーの部分があり、適切な判断をするには、知恵や祈り、カウンセルが必要です。また、もっと時間や取り組みも必要です。立ち止り、状況や質問のアセスメントをし、祈り、相談し、主から聞かなければならないのです。それは、優れた、バランスのとれた決断をするのに必要なことであり、簡単ではありません。
特定のウエブサイトやオンライン・アクティビティーにはまり、そうしたサイトでものすごい量の時間を費やす人たちを知っています。コンピューターゲームをしたり、意味のないネットサーフィンで時間を無駄にして夜更かししているのです。疲れて、次の日にちゃんと動けないにもかかわらず、同じことを繰り返し、夜になると、やはりインターネットにはまって、また夜更かしをするのです。
インターネット自体が問題なのではありませんが、その誤用によって問題が生じるのです。時間を無駄にすることや、否定的なインプットや、中毒、及び、不道徳なサイトが間違っているのです。それが、多くの時間をとらせたり、世の中のものであなたを満たすことによって、弟子であることや、他の人を気づかうこと、主と近い関係を保つことから遠ざけることになるなら、それは有害です。もちろん、インターネット自体は役に立つし、楽しいものともなるので、すべてネガティブではありません。しかし、あまりにも多くの時間を費やしているなら、または、自分にとって良くないサイトを訪問しているなら、霊的に不健康になりえます。
私たちは人間なので、誰もが時に間違いをし、罪を犯し、間違ったことや馬鹿なことをするものです。個人的な完璧さを達成しようとしているわけではないし、他の人にもそれを求めるべきではありません。そうするなら、自分や他の人に非現実的な重荷を負わせることになります。
しかし、私たちは信仰のグループ、宗教のグループ、宣教を基盤としたグループです。私たちは、仕事を果たすためにここにいる弟子の集まりであり、その仕事をするには、霊的に良い状態を維持すると決意しなければなりません。何でもしたいことを、したいだけするという完全な自由がほしいなら、あなたはクリスチャンの弟子となることには向いていないのかもしれません。完全な自由が人生でのゴールなら、弟子には霊的な要求事項があることを認識すべきです。主が私たちに求めておられることがあるので、クリスチャンとして私たちはそれに見合った生き方をすべきです。
それを変えて、ルールを破棄するとしたら、聖書を捨てなければならないことでしょう。「世と世にあるものとを、愛してはいけない」とか、「彼らと分離せよ、・・・汚れたものに触れてはならない」とか、「おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」という聖書の節を放棄しなければならなくなるのです。[3]
個人の自由を奨励する今日の世界にあって、こんな考え方の人たちもいます。つまり、キリスト教は人々に、好きなことはほぼ何でもさせるべきであり、規制はなくすべきである、何かが霊的に、あるいは身体的に害を及ぼすものであっても、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」[4]とあるように、それが自分のために大丈夫かどうか判断できるはずである、と。
私が聖書で読んだことからすると、神は、人々には何らかのルールやガイドラインにそって生きることが必要だと考えておられるようです。神は聖書にそうしたものを沢山記されています。私たちを正しい道に保つルールやガイドラインがなかったら、私たちは主から遠く離れてさまよってしまうとご存じなのです。
イエスは地上で住まわれ、人となり、私たちと同じような感情を経験されました。[5] おそらくそれが理由で、主は歴史上の信者たち皆に、主に近く従うように言われたのでしょう。主は、この世にあるものがどれほど誘惑と欺きに満ちているかをご存じだからです。あなたがたはこの世にいても、この「世のものではありません。」[6] 明らかに、主は弟子たちがこの世のものではないことを望まれました。「わたしがあなたがたを選んだのである。」[7]
宗教グループとして、私たちは「悪を避けて善を行」うことを信じています。[8] 良きものを取り入れ、それを責任のある態度で使うことを願います。しかし、中には、誤用されると良いものではなくなり、自分や他の人にとって悪いものとなりうる、あるいは、害を及ぼしうるものもあります。
弟子として私たちは、人生で非敬神的な影響を最低限に留めるよう召されています。というのも、非敬神的なものは私たちの霊に良くないからです。弟子である私たちは、主が定めた境界の内側に留まるよう最善を尽くし、主が求めておられることをするだけの確信を持っているべきです。しかし、完璧な人はいないし、私たちの誰もが、しくじる時があります。しかし、もしも常に不従順でいる、または、わざと霊的な境界線を無視しているならば、あるいは、自分のしていることに支配され、その中毒になり、止めることを拒むなら、それは問題となり、霊的な人生に害を及ぼします。
人は罪の内に生まれ、罪、つまり悪いことをするのは、人間性の一部です。誰もが罪を犯し、間違ったことをします。クリスチャンや弟子であっても同じです。素晴らしいのは、私たちにはイエスを通してゆるしがあることです。私たちが間違ったことをし、罪を犯す時、私たちの罪は十字架でのイエスの犠牲によって流し去られます。それは素晴らしいことです。しかし、ゆるされるからといって、罪を犯さないよう努力をすべきではないということではありません。良い悪いに関係なく、何でもやりたいことをしてもいいことにはならないのです。知っていてわざと、頑固に間違った選択をしてもいいことにはなりません。[9]
宗教として、信仰として、私たちには権利、責任、ルールがあり、それは、弟子としての責任の一部です。
主は私たちに楽しんでほしいし、リラックスしたときを過ごして楽しくやることも望んでおられますが、それをすることが私たちの召しだというわけではないし、私たちがすると決意したことでもありません。私たちは、神へのコミットメントを真剣に受け止めるクリスチャンであり、世界に主のメッセージを伝え、御言葉を実践し、クリスチャンの弟子の生きた手本となり、心と魂と思いと体と力のすべてを尽くして神を愛すると決意しています。弟子であるとはそういうことなのです。
世界中の他の何千何万ものクリスチャンと同じように、私は弟子のコミットメントをしており、それが私のすること、私のあり方、私の生きる目的であり、死ぬ目的です。明日、主が私を、ビデオもインターネットも音楽もこの人生の楽しみもないところに送られたとしても、私はやはり主に仕えます。主を愛し、主に仕えるというコミットメントをしているからです。
弟子には、霊と振舞いの内に高い基準が求められます。時に、何もかもが、また誰もが自分に反対しており、とても落ち込み、もう1分も耐えられないと感じても、なお弟子として進み続けなければなりません。
弟子であることは、楽なライフスタイルではありません。極度に報われますが、時には極度に難しいのです。イエスの時代でも、状況が厳しくなり、メッセージが強くなると、「多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」のです。[10] イエスが12弟子に彼らも去って行くのかとたずねると、ペテロは簡潔に、私たちがどうして弟子であり、どうして毎日神に仕えるかについてパワフルなメッセージで答えました。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」[11]
イエスが神の子であること、そして、主が私たちを、どんな代価がかかろうと弟子として主に仕えるよう召されたことを、私たちは信じています。それはコミットメントであり、仕事、職業です。私たちはそれを誇りをもってします。私たちの王、救い主、ベストフレンド、夫であるイエスが求めたことだからです。
2002年4月初版 2013年8月更新、再版
朗読:サイモン・ピーターソン