死は終わりではない
Death Is Not the End
November 29, 2023
グロリア・クルス
愛する人を失うのはとても辛いものです。私にもよくわかります。
私が初めて愛する人の死に直面したのは、9歳の時でした。同居していた祖母が重い病気になり、ある日、家の中に私と母だけが祖母と一緒にいた時に、息を引き取ったのです。母はクリスチャンで、すぐに祈り始めましたが、私は何が起こっているのか、よく理解できませんでした。
二度目に死別を経験したのは、夫が亡くなった時のことです。夫はガンになり、数年間闘病生活を送った後、26歳の若さで私たちの元を去りました。
言うまでもなく、この経験は私の人生に大きな影響を与えました。この頃までに、私はすでに霊的な体験をしており、それがきっかけで、愛に満ちた神と、地上での神の姿であったイエスを信じるようになっていました。夫もクリスチャンでしたので、私たちにとって、死後の世界を信じていることが、前向きな気持でガンに対処する上で大きな助けになったことは言うまでもありません。しかし、それでも非常に厳しい闘いでした。
夫が亡くなるという悲しい結末を迎えた時にも、私のクリスチャンとしての信仰が支えとなりました。その時、私がしがみつくことのできた唯一のものは、死は道の終わりではなく、新しく、さらに良いものの始まりであるという信仰だったのです。
もちろん、私も最初は心がくじけました。どうして神は、人生の盛りにある人を取り去るなんてことができるのだろう。私もまだ25歳なのに、夫を失うなんて・・。それはかなりの打撃でした。
その時に私がしたこと、そして、今でも辛く感じる時にしていることは、神の言葉に書かれている、死について、また死がいかに次の世界への入口であるかについての数多くの素晴らしい約束に目を向けることです。(この主題に関する聖句の一部を選んで、記事の最後に掲載しておきます。) 私は自分の部屋でそれらの約束を読み返して、何日も過ごしました。そうすることで、夫がより良い場所にいること、私たちはまたいつか会えること、何らかの目的なしには何事も起こらないこと、神はすべてに対して計画を持っておられることなど、起こったことのポジティブな面を見ることができたからです。すると、徐々に、私の優先順位や人生観が変わってきました。
しかし、それらの約束について黙想するのをやめた瞬間、私の思考はネガティブな方向に向かったのです。神が彼を連れ去られるとは、いったいどういうことなのだろう。なぜそうならなければならなかったのだろう。克服することなんて、きっとできない・・。その痛みは耐え難いもので、私の心は折れました。
それから神は少しずつ、愛の香油で傷を癒やし始め、御言葉を通して、私が起こったことを受け入れ、さらに、それを私の人生におけるポジティブなものに変えるよう助けてくださいました。他にも、レイモンド・ムーディ博士の『かいまみた死後の世界(Life After Life)』や他の同様の書籍にある証言を読んで、慰めを見いだしてきました。
ローマ8章28節には、こうあります。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」(聖書協会共同訳) 神は、あなたの人生に非常にポジティブなものをもたらすために、あなたが経験したこと(愛する人との死別も含めて)を用いることができます。そして、心の痛みをこの聖句のフィルターにかけてみるなら、あなたは新たな視点を得ることができるでしょう。
神は良いお方であり、あなたを愛しておられます。神を信頼してください。天国は本当にあるのだと信じましょう。人生は死によって終わるわけではないのです。
以下に挙げるのは、私が死を自然なこととして受け入れるのに役立った考え方です。
この世を去ることは、一つの部屋から別の部屋に行き、ドアを閉めるようなもの。
私は海辺に立っている。一艘の船が朝風を受けて白い帆を広げ、出航していく。船が水平線に消えゆくまで、私は立って眺める。その時、そばにいる誰かが、こう言う。「行ってしまった。」 どこに行ったのだろうか。私の視界から消えただけであって、船が消えたわけではない。誰かが「行ってしまった」と言うその時に、船が来るのを見ている人たちがいる。そして、「ほら、やって来た」と、喜びの叫びを上げる。死とは、そういうものだ。—ヘンリー・ヴァン・ダイク
あなたも生まれ変わったクリスチャンとして、愛する人は消えたわけではないのだと信じ、信頼することを、私はお勧めします。また会えるのです。イモムシがどんな変貌を遂げるかを考えてみてください。サナギの中に閉じこもった時には、死んでしまったように見え、二度とイモムシに戻れないかのように思えます。しかし、死んだわけではありません。姿を変えただけであって、今や色鮮やかな美しい蝶になりました。私たちが死ぬ時も、それと同じなのです。
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伝道の書3:1–2: 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり …
詩篇116:15: 主の聖徒の死はそのみ前において尊い。
詩篇139:16: あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
ヨブ1:20–21: ヨブは … 言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」
2コリント4:16–18: だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
詩篇23:4: たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
ローマ14:8: わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
ヨハネ11:26: 生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。
ヨハネ5:24: よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
イザヤ25:8: 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい …
ルカ1:78–79: これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう。