質素な生き方を培う
Cultivating Simplicity
April 23, 2019
引用文集
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何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。—マタイ 6:33[1]
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神は私たちの体に必要なものをご存じであるし、神の言葉には、私たちの必要を満たすという約束がたくさん書かれています。しかも、一切の必要を満たすとさえ。[2] しかし、イエスは、富のむなしい追及はクリスチャン人生の障害となりうるという警告も与えておられます。[3] また、自分に何が必要か、なかなか正しく判断できないのが人間というものです。ベンジャミン・フランクリンが言うように、お金は「あればあるほど、もっと欲しくなる。空白を埋めるのではなく、空白を作り出してしまうのだ。」
では、いくらあれば十分なのでしょうか。
この誰もが抱く質問を、使徒パウロはテモテに書いた手紙で取り上げていますが、彼の結論は驚くほどのミニマリズム(最小限主義)でした。「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。」[4] パウロは、そのようなミニマリズムを超えた生活が悪いとは一言も書いていません。彼が言いたいのは、真の満足は物の豊かさとは関係ないということです。
富を増やすことは、度を越してしまうと、結果として幸福度や人生の質を低下させうることが、様々な研究で確認されています。それはそうだと思います。誰もが、自活し、家族を養うためにお金を必要としていますが、基本的な必要や願望が満たされた時点で、富の追及が幸福の追求と相いれなくなってしまうことがよくあるのです。
要するにそれは、私たちの態度や、神がその時に私たちの人生において行っておられることに、かなりかかっているようです。たった今、物が有り余って富んでいようと、不足して乏しかろうと、 [5] 人生における真の成功と充足感は、天の父について学び、父と親しい関係になることから来るのだということを忘れてはいけません。「地上で富をため込んでも、神との豊かな関係を持たない人は愚かである。」[6]—サミュエル・キーティング
質素さの鍵
真の財産とは、お金や物ではありません。真の財産とは神の国であり、私たちの人生における神からの愛や働きかけ、また、救い、神の供給や世話、そして将来受け取る報酬です。この点を理解するなら、お金やその使い方を正しい見方で見ることができます。
ダビデは詩篇24篇で、こう声高に語っています。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」[7] 神ご自身が、被造物を所有しておられることを言明しておられます。「世界はすべてわたしのものである。」[8] 天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。」[9] このことから、私たちが「自分のもの」だと思っているものは、私たちの財産だけではなく、私たち自身も含めて、実際にはすべて私たちの創造主のものであることが分かります。私たちは単に、神から任せられたものを管理・世話しているに過ぎません。
すべてが神のものだとはいえ、神は私たちが幸せでいて、与えられたものを楽しむことを望んでおられます。第1テモテ6章17節に「わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神」と書かれている通りです。私たちは神の資産(限定的な意味では自分が所有する物、そして一般的には地球の資源)の管理人であり、それを自分や愛する人たちが人生を送り、神が任せてくださったものを楽しむために使うことができます。持ち物やお金、富と正しい関係を持つことは、私たちと神との関係において極めて重要です。
所有の原則(神がすべてを所有しておられること)と管理者となることの原則(私たちは神から与えられたものを、御心と御言葉に沿って使うべきであること)、また持ち物やお金との正しい関係を培うことの必要性を理解するなら、私たちが管理する、目に見えるものとそうでないものの両方に関する自分の態度と振る舞いを改められるようになります。
この関係における一つの鍵は、質素であることです。質素な生き方は、現世の物事に対する不必要な愛着心から自由になる手段、地上のものではなく天にあるものに心を留める手段であるとも言えます。[10]
イエスは私たちの宝のある所に心もあると言われたので、自分の真の宝とは何なのかを吟味するのは賢明です。私たちは自分の所有物との間に正しい関係を保ち、その関係がバランスを崩した場合に起こりうる害にも気づくべきです。質素になることによって、自分自身や物に焦点を合わせて考えることがそれほどなくなり、真の宝に焦点を合わせ続けられるようになります。その宝とは、私たちが持ちうる最も価値のある神の愛と救いを与えてくださる愛情深い神のことなのです。—ピーター・アムステルダム
質素さの鍛錬
質素であるとは、最も重要な数少ないものに焦点を合わせ、それと対立する重要ではない多くのことにあまり重きを置かないようにすることです。
質素であるとは、心の内で焦点が合わせられていることであり、それが人の生き方に表れるようになります。…人生はさほど不安なものでも面倒なものでもなくなるのです。自分の持っている物を手放し、他の人と分かち合うなら、自由がもたらされます。…
物を手に入れることに焦点を合わせた人生は、クリスチャンの歩みにとって致命的です。イエスは私たちが神と金とに兼ね仕えることはできないと言っておられます。また、貧しい人たちは幸いである、あなたの宝のある所には心もあると。問題は、より多くの物を得ようとばかりしているなら、「まず神の国を求める」ことはできないということです。
その一方で、神は私たちが適量の物を所有し、人生に喜びを感じることを望んでおられます。極端な禁欲(無理やりの貧困生活やすべての快楽の否定)は、それ自体が的外れなことです。質素であるとは、そういうことではありません。質素とは、自分の持ち物を正しい見方で見ることです。持っているもので満足し、それを神に感謝し、また、喜んで他の人と分かち合うことなのです。…
[リチャード]フォスターは、質素さの表れについて、10の例を挙げています。 これは(律法主義につながるような)「ルール」ではなく、私たちが適用してみるといい一般原則です。このような外面的なものに伴って、私たちの内面も変わっていきます。
1) ステータスのためではなく、役に立つかどうかを基準に物を買う。 大切なのは、実用性と耐久性であって、高級感ではありません。
2) 依存を引き起こすものは何であれ、受け付けないようにする。 依存とは、自分にはコントロールできないほどの衝動です。神以外のもののとりこになることを拒みましょう。
3) 物を人に譲る習慣をつける。 貯めこまないようにしましょう。自分がとりわけ愛着を感じている物を人に譲ることも検討してみてください。
4) 最新グッズの宣伝者に言いくるめられることを拒む。 広告主は、私たちに最新・最高のものが必要だと告げます。しかし、通常は、すでに自分たちの持っているもので問題ありません。
5) 自分が所有していないものを利用して楽しむ。 公園や図書館に行くことができるし、プライベートビーチがなくても、海岸を楽しむことができるのです。
6) 自然をより深く味わうようにする。 散歩に出ましょう。鳥のさえずりに耳を傾け、花の香りをかぐのです。
7) 「後払い」プランには疑い深く。 借金状態にならないよう、細心の注意を払いましょう。
8) ありのまま正直に話すことに関するイエスの教えに従う。 「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」を意味して言うということです。お世辞や憶測を呼ぶようなことは言わないようにしましょう。
9) 抑圧を引き起こすようなことは何であれ、受け付けないようにする。 たとえば、奴隷によって作られたものを買わない、他の人にさせたくなるような「つまらない」仕事を自分でする、といったことです。
10) 「まず神の国を求める」ことから気をそらせるようなものは何であれ、自分から遠ざける。 気をそらされるのはたやすいことだし、いいことが気をそらすことだってあります。そうならないようにしましょう。—ケビン・ジャクソン[11]
2019年4月にアンカーに掲載 朗読:ジェイソン・ローレンス