惜しみない心を育む
Cultivating Generosity
October 2, 2023
ピーター・アムステルダム
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富や所有物の蓄積は幸福になるために必要であるという態度を取り、それが関心の焦点となるならば、神が受けるにふさわしい、私たちの人生における第一の場所を、代わりに所有物に与えるようになります。パウロは貪欲を偶像礼拝と呼んでいます。それは、私たちの心の中にある、神だけのものである場所を、奪うからです。(コロサイ3:5)
お金や財産は、それ自体が悪ではありません。第八戒である「あなたは盗んではならない」(出エジプト20:15)と、第十戒にある「隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト20:17)という言葉は、どちらも、私有財産は是認されていることを示します。しかし、物を過度に重要視する時、財産やお金に対する欲求が優先事項となってしまい、それはイエスが明確に反対されたことです。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。… だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイ6:19–21, 24)
財産、あるいは次々と欲しがる過度の欲求が、心の中で第一の場所を占めてしまい、それによって自分の幸せが左右されるようになるなら、神がすでに与えてくださったものに意識を向けることができるよう、逆戻りできるよう神にお願いする必要があります。こう自問するといいでしょう。「私は地上のものに心を留めているのだろうか。それとも、天上のものだろうか。安心を与えるものとして、神の愛と約束よりもお金を信頼しているのだろうか。お金や物に対して過剰な欲求を持っているだろうか。」 なんでも私たちが持っているものは究極的に神のもので、神はそれを私たちへの贈り物としてくださったこと、そして神は物惜しみしない方であることを思い出すのは、助けになります。
惜しみない心を育むことで、私たちは天に宝を積むことを重視していることになります。(ルカ18:22) それはまた、人生は短く、死ぬ時には持ち物も地位も肩書も財産も全てを残していくということを覚えていると助けになります。物質的財産も地位も、私たちを完全に満足させることはありません。なぜなら、真の満足は、神の内にのみ見いだされるからです。イエスは、この世の国々と全ての富とを差し出された時、それを断りなさいました。最も価値あること、つまりご自身の父を愛して仕えることに背を向けるつもりはなかったからです。(マタイ4:8–10)
惜しみなさという点から神のことを考えてみると、神の与え方がどれほど気前の良いものであるかが、よくわかります。神の惜しみなさは、私たちが赦しと永遠の命を受けるために、私たちのために死んでくださるようにと御子を送ってくださったことに表れています。神は、救いを贈り物(賜物)として与えてくださいました。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ2:8)
そして、神が恵みを与える時には、惜しみなく与えてくださいます。「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。 神はその恵みをさらに増し加えて …。」(エペソ1:7–8)
神の惜しみなさは、他にも、日々私たちのまわりの世界や神の造られた自然の美、見事な色彩、美しい日没、鳥のさえずりの調べ、その他様々なものに見られます。そして、天国もそうです。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。」(1コリント2:9)
神は惜しみない性質をお持ちの方であり、神がくださるものは全て貴重で、私たちが受けるに値しないほどのものであることを理解したなら、私たちもまた、より神に似た者となりたいという願いのもとに、他の人に対して惜しみなく与えるべきです。
もう一つ、惜しみなさの鍵は、所有権について正しく理解することです。つまり、突き詰めていけば、万物の創造者である神が全てを所有しておられるのであり、私たちは神が任せてくださったものを管理しているのだと認めることです。(ヨブ41:11) たとえ、物を買うためにお金を稼いだとしても、それができるようになるための命や能力、その他全てのものを与えてくださったのは、究極的に神なのです。この概念は、イスラエルの民が、自分たちの栽培した作物について神に感謝するように教えられている、申命記8:10に見られます。作物を育てられるように土地を与えてくださったのは神だからということです。自分たちは食料を生産するために働いたとは言え、その手段を与えてくださったのは神です。
私たちは神が授けてくださったものの管理者であること、また、神は惜しみなく与えることの最高の手本であるということを受け入れるなら、与える時の自分の態度を神のそれに合うものにしたいと思うことでしょう。与えることを神がどのように考えておられるのか、聖書が教えることをいくつか見ていきましょう。
貧しい者に惜しみなく与える者は、主に貸すのだ。主がその行いに報いてくださる。(箴言19:17 英語ESV訳)
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。(ルカ6:38)
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(2コリント9:7 新共同訳)
わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が、さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。(使徒20:35)
私たちの多くは、たくさんのお金を持っているわけではありませんが、与えるのはお金に限りません。私たちは神が与えてくださった能力や時間、才能、賜物、そしてお金がある時にはお金も、他の人を助けるために惜しみなく用いるべきです。皆が同じだけの物を持っているわけでも、同じだけの時間を割けるわけでもありませんが、他の人のためにいくらかの時間を犠牲的に生み出す方法を見つけることは、誰にでもできるのです。私たちには皆、誰かに役立てる、神から与えられた賜物や才能、能力があるのですから、そのいくつかを何らかの形で人を助けるために使うことによって、神にお返しすることを考えてみるといいでしょう。
神が与えてくださったすべてのものの管理者として、自分の賜物や才能、技能、金銭を、神の惜しみなさに倣って用いる時、私たちは神をあがめていることになります。金銭であれ、神から授かった才能や能力であれ、与えることは犠牲ですが、そのような犠牲はこの世でも次の世界でも、報いられると聖書は教えています。「良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。」(1テモテ6:18–19)
言うまでもなく、より多くを持っている人のほうが、もっと与えることができますが、与える人に授けられる祝福は、その人が与える量とは関係ありません。イエスは、その点をこのように説明されました。「イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ[銅貨]二つを入れるのを見て言われた、『よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである。』」(ルカ21:1–4)
惜しみない心を育むには、私たちは自分の持ち物の管理者であって所有者ではないということ、また、世話を任された物の良き管理者となることが期待されていることを信じなければいけません。管理者として、主が授けてくださったものをどのように使うべきか、主の導きを求める必要があります。つまり、自分にあるものをいかにして主の栄光のために用いることを主が望んでおられるのか、たずねるということです。
そのような導きの大部分は、聖書の中に見つけられ、私たちは以下のことをすべきだということが、わかります。家族の世話をすること(1テモテ5:8)、貧しい人を助けるためにできることをすること、主に捧げること、収入内で生活すること、満足すること、祈りをこめて使うことです。私たちは、神が世話してくださると信じるべきだし、貧しく暮らす時も、豊かに暮らす時も、神に感謝すべきなのです。(ピリピ4:12)
私たちが主への感謝で満ちている時、それは、私たちに必要なものを与えて世話してくださる主の慈しみと誠を私たちが認識していることを主に示しています。私たちは完全に主に寄り頼んでおり、全てのものは主の御手から来ているということを私たちは知っていると、告げていることになるのです。主に感謝している時、私たちは主の主権や惜しみなさ、また、私たちに対する主の愛と世話を認めていることになります。
パウロは、信仰の歩みの基本についてコロサイ人に書く際、感謝をそこに含めました。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:6–7)
感謝の心は、神との歩みにおいて欠くことのできないものです。残念なことに、私たちは時々、自分に与えられた祝福について、神に感謝してその気持を伝えないことがあります。祝福に慣れきってしまい、さらに、その中に神の御手を見なくなってしまうのは、ありがちなことです。大きな祝福にも小さな祝福にも気づくことを習慣にすることによって、また、そのような祝福について日頃から神に賛美と感謝を捧げることによって、自分の人生において神がいかに豊かに祝福を与えておられるか、今よりもはるかに自覚するよう努める必要があります。「そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝」しましょう。(エペソ5:20)
初版は2017年1月 2023年10月に改訂・再版 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ