命の冠
The Crown of Life
February 19, 2019
引用文集
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聖書で述べられている5つの冠があります。それは、朽ちない冠、[1] 魂を勝ち取る人のための冠、[2] 義の冠、[3] 栄光の冠(栄冠)、[4] そして命の冠です。[5]
これらの冠を理解する上で一つ難しい点は、今日ほとんどの文化において冠は使われず、使うとしても王室に限定されるということです。しかし、「冠」と訳されたギリシャ語の言葉はステファノスで、それは「報酬」や「月桂冠」などを指して使われることもあります。ギリシャで行われていた古代オリンピックでは、競技の勝者にステファノスつまり[オリーブでできた]冠が賞として与えられました。
そのように、先に述べた冠は、その一つ一つが神の御国における何らかの特別な奉仕的行為や、耐え忍んだことへの報酬を表しているのです。どうやら見たところ、これらの冠はイエスが将来再臨された時に信者に手渡される、何らかの実際の報酬となるようです。そしてそれはベマ、すなわちキリストの裁きの座において行われることでしょう。—ジェレミー・マイヤーズ [6]
救いと報酬
患難期の終わりの最初の復活においてよみがえり、主のみもとに携挙される人々は、携挙の後に報酬を受け取るでしょう。「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」[7]
けれども、報酬は救いとは何の関係もないことを覚えていましょう。報酬はあなたの働きに対して与えられ、その忠実さや勤勉さや重労働や証しゆえに得られるものなのです。中には聖書の報酬や冠についての節を、救いのことであると混同しているクリスチャンがいますが、救いを働きによって得ることはできません。それは神からの無償の贈り物、賜物です。[8]
救いは報酬として得るものではありません。働いて救いを手に入れることなどできないのです。それは贈り物なのですから。けれども、主からの特別な称賛や評価を得て、「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」[9] と言っていただくことはできます。主はその人によって、一つの町、いくつかの町、あるいは多くの町を治めさせると言っておられます。なぜなら、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」[10] からです。あなたの現世における働きが天国へ行く助けになるわけではありませんが、それらはあなたの報酬とあなたが帯びる輝きの度合いに、大いに関係があるのです。
患難期の終わりに救われた人々がよみがえることに関しては、御言葉はこう述べています。「また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。」[11]
イエスを信じて受け入れた人々は、救いを受け、永遠の命を得て、天国に行くでしょう。けれども人々がかつて歌っていた「私の冠には星が付くようになるだろうか」という歌にあるような星の付いた冠は、働きによって得なければならないのです。イエスは言われました。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば命の冠を与えよう。」[12] 使徒パウロは、その宣教活動の終わり頃、主のみもとに召される少し前に、このように言いました。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」[13]
冠や将来の報酬は、救いとは異なります。あなたは神の御子を通して、既に永遠の命を持っており、それは神からの贈り物であって、それを失うことなどあり得ません。神があなたを守って下さるからです。[14] この冠はあなたの報酬であり、勝者だけに、競走して勝利した者にのみ、与えられるものです。つまり、主に忠実であり続け、信仰のために戦った人々に。
ヘブル11章の栄誉殿堂に名を連ねている、あれら大勢の信仰の人たちのような、主に仕える人々については、神は彼らを誇りに思うと言われているも同然です。彼らの神と呼ばれても、それを恥とされないと言われているのですから。彼らはこの地上では旅人であり寄留者であって、神がもくろみ建てられた天の都を求めているからです。彼らはこの世に満足しておらず、より良い場所を求めています。「彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」[15]—デービッド・ブラント・バーグ
キリストの裁きの座
ローマ14:10–12にはこうあります。「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。…[そこで]わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」 第2コリント5:10はこう告げています。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」 前後の文脈から、どちらの節もクリスチャンについて話していることがはっきりとわかります。ですからキリストの裁きの座において、クリスチャンは自分の人生について、キリストに言い開きをしなければならないのです。
キリストの裁きの座は、救いを決定づけるものではありません。救いはキリストが私たちのために払われた犠牲と[16] 私たちの主への信仰によって決定づけられました。[17] 私たちのすべての罪はゆるされ、私たちは決してそれらゆえに罪に定められることがありません。[18] キリストの裁きの座は、神が私たちの罪を裁かれる場としてではなく、神が私たちの人生ゆえに報酬を与えられる場として見るべきです。確かに聖書にもあるように、自分のしたことについて言い開きをしなければならないでしょう。そしてその中には、きっと私たちが犯した罪に関する弁明も含まれるでしょう。しかしながら、それがキリストの裁きの座の一番の目的ではないのです。
キリストの裁きの座において、信者たちはどれだけ忠実にキリストに仕えたかに応じて報酬を受けます。どれだけ忠実に大宣教命令に従ったかや、[19] どれだけ罪に打ち勝ったかや、[20] どれだけ舌を制したか、[21] などといったことが判断基準となるでしょう。聖書は信者たちが、キリストにどれだけ忠実に仕えたかに応じて、様々なことのために冠を受けると書かれています。[22]…
ヤコブ1:12は、私たちがキリストの裁きの座をどのように考えるべきなのかを、次のようにうまくまとめています。「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」 —gotquestions.orgより [23]
2019年2月アンカーに掲載 朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
音楽:マイケル・ドーリー
1 1 コリント 9:25.
2 ピリピ 4:1と1 テサロニケ 2:19.
3 2 テモテ 4:8.
4 1 ペテロ 5:4.
5 ヤコブ 1:12 と黙示録 2:10.
7 ローマ 14:10,12; 2 コリント 5:10.
8 参照:エペソ 2:8–9; テトス 3:5; マタイ 16:27; 黙示録 22:12.
9 マタイ 25:21.
10 ルカ 19:17; 16:10.
11 ダニエル 12:2–3.
12 黙示録 2:10.
13 2 テモテ 4:7–8.
14 参照:ヨハネ 6:37; 10:28–29; 17:3.
15 ヘブル 11:16.
16 1 ヨハネ 2:2.
17 ヨハネ 3:16.
18 ローマ 8:1.
19マタイ 28:19–20.
20 ローマ 6:1–4.
21 ヤコブ 3:1–9.
22 1 コリント 9:27; 2 テモテ 2:5.