告白
Confession
November 12, 2018
ピーター・アムステルダム
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イエスを救い主として受け入れる時、私たちの罪はゆるされ、よって、神の裁きによって御前に義とされ、それに伴って救いが約束されます。神は人類に対するその偉大な愛ゆえに、私たちが神と和解するための道を作られました。その道とは、私たちが神の家族の一員として再び生まれることができるよう、ご自分の命を与えて下さった御子イエスの犠牲によるものです。救いは私たちと神との関係を変えました。今、神は私たちの父であられます。私たちは永遠に神の家族の一員となったのです。
けれども、再び生まれるというのは、もはや罪を犯さないとか、罪を犯してもそれに伴う結果が何もないということではありません。罪は、私たちの人生や他の人たちの人生に否定的な影響を与え、何よりも、神と私たちとの個人的な関係に著しい害を与えます。罪は父なる神との関係に裂け目を生じさせ、告白はその裂け目を修復します。私たちが傷つけたり気を害させたりした人との関係を回復させる時と同様に、神との関係を正すには私たちの側に努力が必要です。
告白は、私たちの罪が神との関係に及ぼした影響を打ち消すための手段です。罪を告白することによって普段からダメージを修復しておかないなら、私たちの心と霊がかたくなになり、それに伴って神とますます離れていく危険を冒すことになります。ジョン・マッカーサーはこの点について次のように書きました。
主の祈りで、イエスは私たちに、父なる神に罪のゆるしを乞うよう指導しておられます。[1] イエスは義認を求めて何度も繰り返し祈るように教えておられたのではありません。私たちは救いの時にそれを受け取ったからです。[2] そうではなく、イエスは、私たちの罪ゆえに神との親しい交わりが絶たれている時に、それを回復させるための手段を示しておられたのです。
罪を告白し、神にゆるしを求めることは、その回復に至る道です。神の御前に行き、自分が罪を犯したことを認めて、ゆるしを求め、心から悔い改める時、その裂け目は修復され、傷ついた関係は回復します。私たちは不義から清められ、今一度、義との、つまり神ご自身との交わりに入ることができるのです。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」[3] 神は私たちをゆるしたいと願っておられ、告白は私たちが神から恵みと憐れみを受けるための手段なのです。
ギリシャ語では、罪を「ハマルティア」(hamartia)と言い、これは的を外すこと、正しさと栄誉の道から迷い出ること、間違ったことをする、間違った方向に行くことを意味します。クリスチャンとして、私たちは正しい道から迷い出たり、的を外したりしたくはありません。私たちの目標はイエスのそばを歩む人生の旅路を行き、主の傍らから離れないようにすることです。罪を犯すと、私たちはふらふらと主から離れてしまいますが、告白は私たちを引き戻します。告白は、イエスと親しい関係を持ち、イエスにつながっていたいという願いと愛の表現です。
私たちは罪を告白する時、神からの罪のとがめに同意するのであり、また、罪を犯すことで自分自身、神と御言葉と神の性質に逆らって行動したことを認めているということです。私たちは、罪とは間違ったものであること、また、自分は神の気を害する行動を取ったことを認めているのです。
これは、これらの行動は神にとって不快であり、それらを行うことで、私たちは神との関係を損なっていると認めることです。また、私たちが犯す特定の罪も含めた人類の罪ゆえに、イエスは拷問に苦しみ十字架で死なれたと同意することです。告白は、これらのことが間違っており、私たち自身をそれをしたのであって、神の義を害し、私たちはそれをすまなく思い、神のゆるしを必要としているのだと認めることです。また、私たちが罪を告白する時、神はその愛と恵みによって私たちをゆるして下さるという理解の表明でもあります。
チャールズ・スポルジョンは、私たち神の子どもは、裁判官の前に行く容疑者や犯罪者として神の御前に行くのではないと指摘しています。そうではなく、私たちは神の子どもとして、ゆるしたいと願っておられる愛情深い父の御前に行くのです。
罪を告白する時、私たちは自分のあやまちに気づき、認めていることになります。誰に対して不当な扱いをしたのであれ、私たちは、言い開きの責任を負っている神に対して罪を犯したのであり、あやまちを深く悔いていて、神のゆるしを求めていると宣言していることになるのです。
当然、告白には悔い改めも含まれます。つまり、思いが変わること、ものの見方や目的が変わることです。悔い改めというのは、遠い国から父の家に戻ってきた放蕩息子のように、罪に背を向けて神の方を向くことです。罪を犯したことを後悔し、変わろうと決意することです。
私たちは誰でも頻繁に罪を犯します。そうしたくはないし、普通はそうするつもりもないのですが、罪を犯してしまうのです。深刻な罪も、それほど深刻でない罪もありますが、罪はどれも、霊的にダメージを与えます。告白は、そのダメージを和らげるプロセスの一環です。
主の御前に行って罪を告白する前に、どのように罪を犯したのかや、自分で覚えている具体的な罪について、自分を吟味したり、考えたり祈ったりする時間を取るのが良いでしょう。ありとあらゆる詳細や考えうるすべての罪を根こそぎにするのが目的ではなく、むしろ、祈る時間を取って、心の中に主をお招きし、どの面で主のゆるしが必要なのかを示していただくことがその目的です。
聖句は、神に罪を告白するよう告げています。「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。」[4] 私たちが主に告白するのは、究極的に言って、私たちは神に対して罪を犯したからです。
神に罪を告白する以外にも、聖句は、互いに罪を告白し合うことについても語っています。「だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」[5] 「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ・・・。」[6]
ローマカトリック教会や東方正教会、幾つかの英国教会といった一部のクリスチャンたちは、告白[告解]の秘跡に基づいて、司祭に罪を告白することにより、互いに罪を告白し合うようにとの教えに従って行動しています。一般的にプロテスタント教会は、告白は誰もいない所で一人で祈る時に神のみにするものだと信じています。プロテスタント教会の礼拝では、牧師がしばしの沈黙を呼びかけて、教会員たちが自分の罪を主のみに告白する時間を与える所もあります。
自分の罪を告白することは、上に挙げた節で見られるように、一般に個人と神との間のプライベートなことですが、場合によっては、私たちは互いに罪を告白するようにとの教えを受けています。
個人が自分の罪を主に告白しても、それだけで十分だと思えない時があります。その告白によって神との交わりが回復されたという心の平安がないのです。そのような時には、主にあって信頼できる兄弟姉妹に告白するのが良いでしょう。信頼できる仲間のクリスチャンに口で罪を告白することと共に、そのクリスチャンが祈った効果のある祈りこそ、時として、ゆるしを実現させ、その結果、心と精神と霊の平安を生じさせるのに必要なものなのです。
クリスチャンとしての私たちの目標の一つは、イエスを通して、神との深くいつまでも続く関係を持つことです。罪は私たちを神から引き離すので、私たちは罪を犯さないようにすべきです。それでも人間なので、完全に罪から自由になることはできません。そのために、罪を告白し、主のゆるしを求めることが、神との間に、私たちの願っている関係を持つことの鍵なのです。告白は、私たちと神との関係において、罪の影響を排除するために神が与えられた方法なのです。神は私たちを許したいと願っておられるし、私たちが喜んで神の許しを求めるようになって欲しいのです。
私たちが主の御前に行って罪を告白する際、行く時には悲しみや痛恨の念を抱いているかもしれませんが、そこから去る時には大いなる喜びを抱いているでしょう。ゆるされたという喜び、私たちの関係が回復したという喜び、罪の荷に邪魔されずに御前に行けるという喜びです。告白は祝賀につながります。私たちの罪はゆるされ、人生は変わったのです。要するに、「告白は魂に良い」ということです。
初版は2014年7月 2018年11月に改訂・再版
朗読:ジェリー・パラディーノ