キリスト教は心の健康に良い
Christianity Is Emotionally Healthy
June 17, 2020
デニス・エドワーズ
あなたが信仰を誰かと分かち合う際に、神への信仰について知的にあるいは証拠に基づいて主張しても、人々が耳を貸さないといった場面に出くわすことがあるかもしれません。そのような時には別の手段を試してみてはどうでしょう。証ししている相手に対し、イエスと聖書への信仰がもたらす精神的な益を示してみるのです。人生における情緒的に困難な状況をいくつか考えてみて、クリスチャンとしての観点を持つことが心の健康にどう良いのかを見てみましょう。
恐れ: 神の言葉は私たちに恐れるなと教えています。聖書で神は365回以上、「恐れるな」、あるいは同様の表現でそう言われています。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」[1] 神は私たち人間の造られたさま、また、陥りやすい恐れ、不安、落胆をご存知です。神は、私たちと共にいて、私たちを助け、必要を満たし、守ると約束しておられます。私たちが地上の人生でどんなことに直面しても、神はそれに耐えられるように助けてくださるのです。
初期のクリスチャンの多くは、その信仰ゆえに殉教者として命を落としました。彼らは敵の手によって非常に恐ろしい死に直面しましたが、神は恐れに打ち勝つ力を与えました。彼らは恐れではなく、信仰を抱いて死ぬことができたのです。彼らのキリスト教信仰は、永遠の命の希望を与えました。彼らの指導者ご自身が、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」と語っておられます。[2] 神への恐れのうちに歩むことで、クリスチャンは愛と真理という神の戒めを守ることができたのです。イエスは、これらの原則のために生き、死ぬことが最善の選択であることを彼らに告げ、示されました。それゆえに、神を信じることが、恐れに対する勝利を私たちに与えてくれるのです。
死: 神は、たとえ私たちが「死の陰の谷を歩むとも」、共にいてくださると約束されました。[3] また、「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つ」と約束されています。[4] 神は私たちに永遠の命を与え、肉体的な死に対する勝利を与えると言われます。ラザロの墓で、イエスはその妹マルタに言われました。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」[5]
私たちクリスチャンは死を恐れる必要がありません。私たちの主イエス・キリストによって永遠の命を得ているので、死が訪れても受け入れることができます。イエスはご自分が真実を語っていることを証明するために、死からよみがえられました。空っぽの墓は、イエスがよみがえったことを示す最大の証拠の一つでした。ローマとユダヤの権力者たちは、もしキリストの死体を持ってきて見せることができれば、キリスト教を阻止することができたでしょう。しかし、キリストはそこにおられなかったので、それができなかったのです。キリストがよみがえり、続いて聖霊のバプテスマが起こった後、以前は恐れで満たされていた弟子たちが、キリストの愛と真理のメッセージを伝える、恐れ知らずの伝道者に生まれ変わったのです。主のよみがえりの真実は、その出来事に関するすべての状況証拠を最も良く説明するものです。
悲しみ: イエスは、私たちの悲しみに寄り添うことを約束しておられます。イエスの聖霊はいかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さるのです。また、それはただ私たちを慰めるだけではなく、後になって、私たち自身が、神に慰めていただいたその慰めをもって、他の人々を慰めることができるようにでもあります。[6]
苦しみ: 神は、私たちがこの世で経験する苦しみの中にあっても、私たちと共にいると約束しておられます。神は強さと忍耐を約束し、神の御名のために苦しむすべての人に報いてくださいます。聖書の多くの箇所は、苦しみの恩恵について述べています。ヨブ記は、苦しみについての問題を扱っています。聖書は、神がご自分の子供たちの苦しみに関して、慈愛と憐れみに富んだ方であることを教えています。[7] イエスご自身も、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」と言われました。[8]
怒り: 神は怒りに対する解決策を持っておられ、怒りを回避するように諭されています。[9] クリスチャンは、告白と祈りによって、抑制できない怒りに打ち勝つことができます。[10] なぜなら、神が聖霊の賜物である「自制」を与えてくださるからです。[11] すると、怒るに遅くあれるようになり、怒りと共にすべての騒ぎ(わめき)やそしりを捨て去って、互に親切にし、あわれみ深くあり、互にゆるし合うことができるようになるのです。[12]
罪悪感: 神は私たちに罪悪感からの解放を与えてくださいます。御言葉には、「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」とあります。[13] 別の節では、「その罪を…言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」と言われています。[14] ですから、キリスト教は、私たちが悪いことをしたときに抱く罪悪感から解放してくれるということがわかります。イエスは、私たちに罪悪感からの解放を約束してくださいました。私たちは皆、罪を犯し、過ちを犯したので、罪ありとされており、私たちはそれを知っています。しかし、キリストは世の罪のために死に、私たちにゆるしを与えてくださいます。キリストを信じるなら、そのゆるしは私たちのものなのです。
心配: 現代の心理学では、私たちは死ぬほど心配しており、病気や心理的問題の多くは心配と関係があると言われています。イエスは私たちに、明日のことを思いわずらうな、必要が満たされないことを心配するな、なぜなら神は空の鳥や野の花を世話するように、私たちの世話をしてくださるのだから、と明確に言われました。信仰と信頼が心配に打ち勝つ力を与えてくれるのです。
コーリー・テン・ブームは、こう語っています。「心配するというのは、今日の力で明日の荷物を運ぶことであり、2日分を一度に運んでいるのです。明日へと先走っているということなのです。心配は明日の悲しみを空っぽにするのではなく、今日の力を空っぽにします。」 イエスは言われました。「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」[15] 恐れや心配に直面したときには、一瞬一瞬、主に手を伸ばし、主の御言葉と真理にしがみつかなければならないことが多いのです。
ゆるし: キリスト教は、私たちの失敗、罪、間違いへのゆるしを提供します。神は、もし私たちが神を信じるなら、すべての不義から私たちを清めてくださると約束しているのです。イエスは私たちをゆるすと共に、他の人をゆるしなさいと教えておられます。キリスト教は人類に与えられた最高の道徳規範である、ゆるしと愛という規範を提供しています。「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」[16]
愛: キリスト教は、最も大いなる行いは愛に満ちたものであると説いています。最高の倫理規範は、愛に基づくものです。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」[17] 1800年代のイギリスの偉大な作家、チャールズ・ディケンズはこう述べています。「新約聖書は、過去にも将来にも、人類に知られる最高の書物です。それは、義務に対して誠実かつ忠実でありたいと願う人にとって、最高の教訓を教えてくれるのです。」
感謝と賛美: ニック・ブイチチは、感謝に満ちつつ苦い思いを抱えている人や、苦い思いを抱えつつ感謝に満ちた人に会ったことがないと言いました。キリスト教は、感謝し、賛美して歩むようにという戒めによって、多くの否定的な感情に対する解決策を提供しています。箴言は、陽気な心は薬のように効くと教えています。使徒パウロは、「すべての事について、感謝しなさい」と書いています。[18] パウロは弟子たちに、人生で何が起ころうと、どんなに困難に見えようと、神を愛し、信頼し、患難にあって喜び続けるなら、神はそれを共に働かせて益としてくださると語ったのです。[19] 神の言葉は、主を喜ぶことは私たちの力であると教えています。[20] 人生の困難に直面したときに、感謝し、ポジティブになり、さらには賛美に満ちた姿勢で臨むことには、何か非常に大きな力があるのです。
ポジティブさ: 上にあることと密接に関係していますが、神の言葉は私たちにポジティブであるようにと告げています。ポジティブ思考は、ネガティブ思考を克服するのに役立ちます。私たちが自分の考えや心の中に入れるものをコントロールできるなら、糖尿病の人が食事をコントロールするように、私たちは自分の感情に良い影響を与えるポジティブな考えを作り出すことができるのです。パウロはこのように書きました。「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」[21]
キリスト教は、人生の問題に直面し、克服するための最善の解決策を提供しており、「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去った」時が来ることを約束しているのです。[22] 私たちを待ち受けている喜びと楽しみのゆえに、過去に経験した苦悩や痛みを思い出すことさえありません。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。[23]
1 イザヤ 41:10.
2 マタイ 10:28.
3 詩篇 23:4.
4 ヘブル 2:15.
5 ヨハネ 11:25–26.
6 2コリント 1:4.
7 ヤコブ 5:11.
8 ヨハネ 14:18.
9 箴言 22:24.
10 1ヨハネ 1:9.
11 ガラテヤ 5:23.
12 エペソ 4:31–32.
13 1ヨハネ 1:9.
14 箴言 28:13.
15 マタイ 6:34.
16 エペソ 4:32.
17 1コリント 13:13.
18 1テサロニケ 5:18.
19 ローマ 8:28.
20 ネヘミヤ 8:10.
21 ピリピ 4:8.
22 黙示録 21:4.
23 1コリント 2:9.