祝賀
Celebration
September 24, 2018
ピーター・アムステルダム
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祝賀の霊的鍛錬は本質的に、神の言葉の内に留まり、神の言葉に従うことから生じる喜びに関連しています。この鍛錬は、救いとあがないに関する聖書の教えを受け入れることから始まります。つまり、それは神からの贈り物であって、イエスが救い主であると信じ、それによって神の目から義とされることで得られる、という教えです。救いによって私たちは神との関係を持つようになり、また、神が私たちの内に宿られるようになりました。
ダラス・ウィラードは、著書「The Spirit of the Disciplines」にこのように書いています。「神の偉大さ、美、慈しみに対する信仰と信頼に併せて、自分自身や自分の人生とこの世界を楽しむ時、私たちは祝賀を行います。私たちは、神のみわざとして、また神からの贈り物として、人生とこの世界に意識を集中させるのです。」[1]
鍛錬としての祝賀は、神の祝福や私たちとの相互関係に直接関連した、内面的な祝賀と外面的な祝賀の両方に焦点を当てています。それは、物質面と霊的な面の両方における神の愛と世話と祝福に関連する大切な出来事を日頃から祝うことなのです。
私たちは、人生における神の存在について深く思う時間を取る時に、内面的に祝賀の鍛錬を実践しています。私たちは、毎日が神の御手からの贈り物であることを認めているのです。私たちが生きている世界や、目に見える美しいもの、口にする食べ物、誰かと楽しい時を過ごすことといった、私たちが持つすべての祝福が神の御手から来ていることを認めるのです。私たちは救われていると知っていることを喜び、神の御霊に沿った生き方に喜びを見いだします。
私たちは心に平安を抱いて生きています。なぜなら、神が私たちを世話し、「日ごとの糧を与えて」下さること、私たちの必要が満たされること、私たちが心を騒がせたりおじけたりしないように、イエスが平安を与えて下さったこと[2]、そしてその平安が私たちの心と思いとを守るであろうことを知っているからです。[3] たとえ困難で、真っ暗闇の時にあったとしても、なお、神がいますという平安を持てるし、どんなに困難な状況においても神の翼の陰で安全でいられるのだとわかるのです。
信仰と喜びと平安と神の内にある強さとを根底とする内面的な祝賀は、外面的な祝賀をも生じさせます。私たちが抱く平安と喜びを祝うための一つの重要な方法とは、言葉や歌や踊りや、両手を挙げるなど、神の祝福を喜ぶ助けとなる様々なことをして、神を賛美し、礼拝することです。また、家族、友達、信者仲間などと集まる時に、喜びや勝利や、画期的な出来事を記念する時にも、外面的な祝賀をします。私たちは、神が自分や他の人にもたらされた祝福や、達成、主要なプロジェクトの完成、新しい仕事、試験合格、魂が救われたことなどを祝う時間を取ります。誕生日や記念日、卒業、結婚、子どもの誕生などといった家族のお祝いごとをする時、私たちはその機会を使って、その出来事を祝うと同時に神への感謝を表します。また、宗教的な祝祭日には、それを祝うことの霊的な意味や、自分にとっての個人的な意味に意識を向けるなら、意味がさらに深まるのです。
私たちは皆、試みや試練や困難に直面しますが、時として、そういった戦いから来る苦しみや心配や恐れや悲しさしか見ないことがあります。祝賀とは、どの人生にも困難な時があるけれど、喜びや幸せの時もあるものだと認めることです。どんな時にあっても、私たちや他の人たちへの神の慈しみを喜び祝うことは、私たちの信仰にとって大切なことです。
使徒パウロはこう書きました。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」[4]
だからといって、何も行動しないというというのではなく、必要なものや心配事を祈りによって神の御前に携え、それによって、心配するのではなく、神の愛と世話を信頼するということなのです。その信頼の域に入った時、私たちはもはや恐れや心配の荷を負っていないので、心の中に思い煩いとは無縁の平安を経験します。
パウロは先の言葉に続けて、賛美に値する物事に思いを留めるよう助言しています。そして、そうするなら、神の平安が私たちに留まるのです。「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。」[5]
ほまれあること、良いこと、称賛に値するものを心に留めると決めることは、意識的な努力を要する意思による行動であって、要するに、それは鍛錬です。心配せずに神に信頼し、神があなたを世話して下さると信じてそれに沿った行動をしようとするのにもまた、意思による行動を要します。この鍛錬は、神の言葉に沿った考え方と生き方とを選ぶという努力を意味し、それが最終的には、喜びをもたらすのです。心にこの喜びと祝賀の気持ちがあれば、私たちの行動や態度には主の喜びが現れるでしょう。私たちは人生を感謝します。そのすべてに神の御手を見て、それが神からの祝福だと知っているからです。また美味しい食べ物やワイン、美、芸術、音楽、ユーモア、健全な娯楽、楽しみなどを感謝できます。美しい世界と、神がそこに置かれたすべてを喜べるのです。私たちがそれを祝うのは、それらのものが神から来たことを知っているからです。
クリスチャンとして、私たちは世界一喜びに満ちた人となることができます。私たちは救われていて、神の御霊が私たちの内に宿っているし、そのように私たちの人生に御霊がいますことの現れとして、愛、喜び、平安などがあるからです。[6] 神の愛や喜び、また救いを通して私たちが得ることのできた平安は、私たちを喜びで満たし、自由で、生き生きとさせてくれました。この喜びが私たちからあふれ出るべきであり、私たちはそれを他の人にも分け合うようになるべきなのです。神の言葉を読み、学習し、適用する時、また、一人きりになって静かに神との時間を取る時、罪を告白する時、神がなさっている素晴らしいことを書き留め、読み返す時に、この喜びは増し、強められます。それは私たちの祈り、賛美、礼拝、交わりに表れ、私たちの奉仕において、また救いについて他の人たちに話す時に、分け合われます。
神への信頼を強め、信仰において成長する時、私たちは内なる平安をさらに経験し、それはいつまでも変わることのない喜びをもたらします。神を信頼し、神に荷を委ね、神を愛し、私たちに対する神の愛を喜ぶことで、神の喜びの内に宿るよう自分自身を鍛錬する時、私たちは人生のあらゆる面で神を祝う、喜びに満ちたクリスチャンとなります。私たち皆がそのようなクリスチャンになれますように。そのようなクリスチャンこそ、山の上にある町のように、神の栄光のために輝くのですから。
初版は2014年9月 2018年9月に改訂・再版
朗読:ジョン・マーク