全身全霊で主を呼ばわる
Calling on God with a Whole Heart
April 5, 2018
デービッド・ブラント・バーグ
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主は私たちが幸せでいるよう望んでおられるし、実際、私たちはたいていの時、幸せです。けれども、必要とされる変化を主に真剣に求め、必死に祈り、主に心を注ぎ出す時があるべきです。神は、「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば」と言っておられます。[1] 小さな祈りも皆、誠実なものかもしれませんが、深刻な状況が持ち上がってきた時には、必死な気持ちで祈るべき時もあります。主と真剣に向き合うべき時があるのです。
ある人たちはどちらかというと怠慢で、何があろうと主がすべてしてくださると考える傾向がありますが、実際は、とても多くが、私たちと、私たちの意志、行動、祈りにかかっています。神にはどんなことでもできますが、あなたを通して働くようにしておられるし、あなたの祈りには大きな力があります。もちろん、神の全体的な計画や御心が変更することはありませんが、ある事柄については、祈りによってあなたが変化をもたらしうるのです。もし祈って何も変わらないのであれば、祈りなんてどうでもいいということになってしまいます。あなたが神の御霊と御心のうちにあり、神に栄光を帰すようなことのみを願い、その心が主にあってのみ喜びをなしているならば、心の願いを叶えてくださるよう神に求めることができます。なぜなら、あなたのしたいことはただ、神が望まれること、神の栄光のためになることだからです。
一心に神を呼び求めるなら、「わたしはあなたに答える」と神は約束されました。[2] だから、今度、苦境に陥り、主の助けが本当に必要となった時には、主とその力を求めてください。イエスは決して失望させたりなさいません。私たちが奮い立って一心に呼ばわれば、主はいつも答えてくださいます。
祈りの原則
祈りの生活を充実させるために知っておくべき大切なことの一つは、神の言葉です。信仰は、神の言葉を忠実に勉強することによって成長します。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」[3] どちらにせよ、神は答えられますが、まず最初に御言葉を読むといいでしょう。そうすると、心が奮い立ち、祈りのための信仰が与えられます。
神は御言葉の中で数々の約束をされたので、祈る時にはその約束を引用し、神にそれを思い起こさせるべきです。神にご自分の言葉を思い起こさせる時、それは、あなたがそれに信仰を持っていることを示します。あなたの信仰と御言葉の知識を積極的に表明していることになるので、神はそれを喜ばれるのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」[4]
「それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、神の性質にあずかる者となるためである。」[5] あなたは、契約書(聖書)の条件を、契約者(神)に引用し、それを履行するよう要求しなければなりません。それを主に思い起こさせ、主の約束にすがりつき、暗記し、それを口に出して言うことです。神が答えてくださるということを一瞬たりとも疑ってはいけません。そうすれば、神は答えてくださいます。
神の遅延は必ずしも拒絶ではないことを覚えておくのは助けになります。時に私たちは、ただ信仰を持ち、神が答えられるのを待たなければなりません。それは普通、「信仰がためされること」になり、それによって「忍耐が生み出され」ます。[6] 忍耐を学ばせるというのは、神が最も頻繁にされることですが、忍耐という徳を持っている人はごくわずかです。それは本当に信仰を試し、私たちは主とその言葉に頼らざるをえなくなります。
もう一つ重要な祈りの原則は、具体的に主に求めることです。祈る時には、具体的に求め、具体的な祈りの答えを期待すべきなのです。具体的に求めることは、信仰のしるしです。人はよく、あいまいな祈り方をしますが、それは、叶えられることをどちらにせよ期待していないからです。しかし、具体的な祈り方をするなら、それは、具体的な叶えられ方を期待するという信仰を示しています。そして、失望させられるとは思いもしません。
何かを与えてくださるよう、主に強く要求しすぎる時には気をつけてください。主は、その人に良くないものでも、教訓を教えるため、その人の願うままにさせることがあります。イスラエルの民について、主はこう言われました。「主はその願いをかなえられたが彼らをやせ衰えさせられた。」[7] 祈りにおいて、私たちが願い求めるものは神の栄光のためであり、また神の御心のうちにあるべきなのです。
神の尊い聖霊は祈りの生活に大きな効果をもたらし得ます。いったん御霊に満たされるなら、御霊のうちに祈ることができるし、御霊によって祈っていることで祈りの効果が増大します。「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」[8]
いったん何かについて祈り、それを主に委ねたなら、ただ信じているべきです。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」[9] だから、いったん何かについて祈り、それを主に委ねたなら、その時点から、それは神の問題となります。それについて心配する必要はありません。ただ主を信頼して賛美し、主が祈りを聞いて叶えてくださることを感謝するのです。たとえ、すぐに答えを見ることがなくても。
御言葉にはこうあります。「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」[10] ダビデ王は、「感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ」[11]と言いました。それは王の前に出て、王にふさわしい崇敬の念と敬意を示すことのようです。
たとえ自分が疲れていたり、落胆していたり、あるいは主を賛美する気にならない時でも、主を賛美することができます。それが神を喜ばせることだと知っているから、というそれだけの理由で。信仰により、思い切って主を賛美し、呼び水をさして汲み始めるなら、主はそれゆえにあなたを祝福されるからです。
少し落胆しているか、心配したり失望したりしていたとしても、顔を上げて祝福を数えましょう。全ての祝福について神に感謝し、あなたの目を主と良きものとに留めるのです。[12] 主をほめたたえよ! 祈る際に、まず賛美することであなたの心を主のもとへと持ち上げましょう。「わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」[13]
また、「ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができた」[14]ということも覚えていてください。誰かに一緒に祈ってもらうことは、特に試練の時や個人的な困難がある時には、大いに助けとなります。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」[15] そして、「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」[16]
心を合わせて一緒に祈る祈りには大きな力があります。だから、必要な時には、誰か他の人からの助けや祈りを求めることを恥じないでください。
最後に一つ、イエスの御名で祈ることについて、大切な点に気づいてもらえたらと思います。主は新約聖書の随所で、イエスの御名によって祈ること、イエスの御名で求めることが、いかに大切であるかを告げておられます。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」[17] 人々は、イエスの御名にある力に気づく必要があります。イエスは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」と言われました。[18]
イエスを知り、心の中に入ってくださるようお願いしたならば、あなたは主を個人的に親しく知るようになって、祈りを通して主と交わり、主とコミュニケーションを取ることを学ぶでしょう。
1984年初版デービッド・ブラント・バーグの著作より 2018年4月に改訂・再版
朗読:サイモン・ピーターソン