船を燃やしなさい
Burn the Ships
July 6, 2012
これはティラー家の息子さんが深刻な事故に遭い、それによって一家に劇的な変化が生じた際の、ティラー家からのテスティモニーです。物事が計画し願った通りに行かない時にも、主が与えたいと望んでおられる新たな機会を受け入れ見いだすことについての、実際に起こった感動的なレッスンとなっています。
所要時間は45分。前置きが2分間あります。同じリンク先に動画も掲示されています。
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(訳注:)以下は、リンク先に掲示されている口述記録を訳したものです。
ナショナル・コミュニティー・チャーチ
2012年5月13日
声:船を燃やしなさい
ティラー家
[マーク]
全教会支部の皆さん、ようこそおいで下さいました。「声」のシリーズは実にいいですね。先週末はボブ・ゴフさんが、私たちを感動の嵐に包んでくれました。来週末はニューヨーク・タイムズのベストセラー作家ライザ・タークーストさんをお招きする予定で、きっと途方もなく大きな祝福となることでしょう。しかし、今週末は特別です。ティラー家をこの教会お迎えすることができるとは、素晴らしいではありませんか。一家と親しくおつき合いを始めたのはここ数ヶ月のことですが、私はその優しい心や物語を愛してやみません。黙示録12章には、私たちが小羊イエスの血とその証しの言葉によって敵に打ち勝つとあります。私たちのテスティモニーには重大な意味があると思います。そこで今晩はジョンさんをお招きして、ご家族のことや一家が直面し克服した様々な難局についての物語を分け合って頂きましょう。それでは今夜の語り手ジョン・ティラーさんを、NCCからの盛大な拍手でお迎えしようではありませんか?
[ジョン]
マーク先生、ありがとうございます。土曜日の夜に教会にいられるなんて、素晴らしいですね! 実を言うと、私は教会が大好きであると同時に、映画館も大好きなんです。大の映画好きでして。私たちの人生はちょうど映画を製作するようなものです。誰もが人生のための夢や計画を、つまり人生がこのように展開してほしいという願いに基づいた脚本を持っています。人生は大抵脚本通りに進みますが、時には脚本通りにいかないこともあり、そのような時には映画俳優のように、幾らか「改善」というアドリブを入れて、予想外のハプニングに順応すべくちょっとした微調整を施さなければなりません。大抵人生はまたもとの脚本に戻りますから、別に大したことはありませんが、時おり人生が脚本から外れると、それが痛ましいほどにもとの脚本とはかけ離れた展開を見せることもあり、私たちはただただ途方に暮れてしまいます。
2003年、私が29歳だった時、人生は大体において自分が思い描いていた脚本通りに進んでいました。人生計画というのは、映画の脚本を考えるのと似ています。私は大企業を運営しており、素晴らしい妻もいました。いや、素晴らしい妻と大企業と言うべきでしょうか! 数エーカーもある素敵な家と、レザーシートまで温まるオンスター社のSUV車も持っていました! 人生はとても順調に進んでいましたが、中でも最高だったのは、イーライという健康そのものの3歳の男の子がいたことです。イーライはそんじょそこらの赤ん坊とは違いました。実を言うと、つい先程先生が祈られたように、私たちは結婚して間もない頃に、一人の赤ん坊を流産で亡くしてしまったんです。そして神がイーライをお与えになるまで、5年間ずっと深い苦悩の内に祈り続けました。そして生まれてきたその子は、申し分なく健康だったのです。さて、彼は当時3歳で、人生は私が当初思い描いていた以上に素晴らしい展開を見せていました。しかし、脚本は瞬時に変更されることもあるのです。これをご覧下さい。
[イーライのビデオクリップ]
[イーライが2階の窓から落下したことについてのビデオ]
それは私が自分や家族について思い描いていた脚本ではありませんでした。2003年1月の、季節に似合わず暖かい朝に、私たちは家の一つの窓を開けっ放しにしていました。息子はガレージの上にある2階の遊戯室で遊んでいて、妻は隣の部屋でコンピューターを使っていたのですが、突然異常に静かなことに気づいて、様子を見に行きました。部屋に入ってイーライを呼びましたが、返事がありません。急いで部屋を見回すと、いつも通り息子のおもちゃが床中に散らかっていましたが、あるおもちゃだけがいつもの場所にないことに気づきました。彼はプラスチックでできた小さな園児用のテーブルと椅子のセットを持っており、その椅子の一つを引きずって、部屋の反対側にある窓の下に動かしていたのです。その窓を見上げて防護用の網戸がそこにないのを見た時、妻の恐れは現実になりました。窓際に行って外を見ると、4メートルほど下に、私たちの一人息子が、大切な3歳児がぐったりと横たわっていたのです。妻は階段を駆け下りて電話をつかみ、救急車を呼びました。その日私は不動産の仕事で出かけており、ある大きな土地の売却の件で人と会っていまいした。その27エーカーの土地の周辺を歩いていた時に、携帯がビーッビーッとマナーモードで鳴り続けていましたが、地主と面談の最中だった私は、「何で放っといてくれないんだろう? 忙しいのがわからないのかな」と思っただけでした。
電話はずっと鳴り止みませんでした。会談が終わってSUVに乗り、長い私道を抜けたところでチェックすると、何件かメッセージが入っていました。最初のは大した用件ではなく、親しい友人からの昼食への誘いでしたが、次の2件は私の人生を完全に変えてしまうようなメッセージでした。妻のトリシャが取り乱した声でこう言っていたのです。「ジョン、早く帰ってきて。イーライが窓から落ちたの! 急いで!」 次のは苦しそうな声でした。「ジョン、ここに警察や救助隊が来ていて、彼を病院に連れて行こうとしているの。あなたも病院に来て。」 まるでサーフィン中に、後ろから巨大な波に襲われたような気分でした。何が起こっているのかわかりませんでしたが、状況が思わしくないのは確かでした。そこでトラックのギアを入れて病院に向かいながら、引き続きメッセージに耳を傾けました。次のは冷静な声でした。「ジョンさん、バージニア州警察捜査官のアダムズです。息子さんは保護され、救急ヘリでバージニア医科大学に搬送されました。奥さんとそのお母様も一緒です。あなたもこちらにいらして下さい。」 私は「うわぁ、救急ヘリで医科大学に運ばれるなんて、きっとひどいけがをしたに違いない」と思いましたが、次のメッセージには、まるで心の準備ができていませんでした。医科大学の専属牧師が、こちらに着いたらどこどこでお会いしましょうと告げたのです。おわかりでしょうか、私は牧師や病院とかかわったり、彼らの世話になった経験があまりなく、牧師から電話がかかってくる時といえば、愛する人がすでに死んでしまった時ぐらいのものだと思っていましたから、これは衝撃的でした! 私の人生は脚本からすっかり外れてしまったのです! 人生がどうしようもないほど脚本から大きく外れてしまった時、皆さんならどうされるでしょうか?
専門家によると、私たちは危機に面した時に、自分が心から確信しているものや信じているものに立ち帰るのだそうです。私は失意のどん底に陥り、私の世界は制御不能になってぐるぐると回っていました。祈ること以外は何も思いつかず、運転しながらこのように祈ったのを覚えています。「神よ、何が起こっているのかわかりません。息子が死んだのかどうかもです。どうか彼を死なせないで下さい! 彼が死ぬなんて理屈に合いません! でも神よ、私はあなたが私たち以上に彼を愛しておられることを経験から知っているので、何が起ころうともあなたを信頼し、あなたに仕え続けます。」私はすべきだとわかっていることをすべてしました。詩篇22篇3節には、神がその民の賛美の内に住まわれるとあり、これまでにないほど神を必要としていた私は、CDプレーヤーの賛美の音楽のボリュームを最大にして、病院に着くまでずっと流し続けました。
大勢の人にこの話をしましたが、その時私が示した反応については、意見が二通りに分かれます。「ジョン、君ってものすごく霊的なんだね! 僕も同じ状況でそんな風に振る舞えるといいけど」と言うか、「まさか。本当ですか? 子どもの命がかかってるというのに、音楽のボリュームを上げて神を賛美したのですか? 信じられない」と言うかのどちらかです。さて、私はものすごく霊的ではないし、他の皆と同じように毎日闘いがあります。そして、自分でもなぜあのように振る舞ったのかうまく説明できません。でも、後から考えてみると、私の反応は予想しうるようなものだったし、おそらくは皆さんだって同じように反応したことでしょう。
リーダーシップに関する専門家ジョン・マックスウェルは、その著書「Today Matters(今日という日が大切)」の中で、私たちが人生で本当に下す決断はほんの一握りだけだと言っています。そして残りの人生を、自分がすでに下した決断に沿って生きるのだと。私たちは自分の信仰に見合った生き方をするかどうかや、健康的な生活や正しい食生活をして運動するかどうか、あるいは家族をよく世話し、他の人に仕え、賢くお金を遣うかどうかといった様々な決断を下すかもしれませんが、人生において本当に下す決断というのは一握りしかなく、それ以降は単にそれらの決断に沿って生きるだけなのです。
スペイン人の征服者であるエルナン・コルテスは、1519年にキューバからメキシコのヴェラクルスへの最後の旅に出征しました。彼は500人の兵士と100人の水夫と16頭の馬と11艘の船を持っていました。彼らの目的は、当時知られていた中でも最も広大な土地と豊かな財宝を所有するアステカ族のインディアンを征服することでした。その土地と財宝を奪うことができるなら、それは前代未聞の大勝利となるでしょう。事実、過去600年間に渡って他の人々も同じ土地を征服しようと試みたにもかかわらず、失敗してきたのですから。コルテスは目的地に向かう途中で兵士たちに、この土地と財宝を奪うことができたあかつきには、彼らとその家族の人生が永遠に変わるであろうことを思い起こさせました。メキシコに上陸した時、彼は兵士の士気を大いに高めるような演説をしなければならず、その中で全面的な献身を要求すると同時に、敗北という選択肢を抹消するような3つの言葉を発しました。「船を燃やせ(Burn the ships)!」 「国に帰る時は敵の船で帰るぞ!」というものです。そこで、彼らは自分たちが乗ってきた船を燃やしました。どんな代価がかかろうとも、それによって命をも失う覚悟で、自分たちの目標と新たな人生に全身全霊で取り組んだのです。
さて、キリストに従うという私たちの決断もこれと同じです。いったん主に従うと決めるなら、もう主のいない人生には戻らない覚悟で、船を焼き払わなければならないのです。
息子が事故に遭う8年前に、トリシャと私は家族を持ちたいと思っていました。そして家族を持つつもりなら、教会に通うのはいい手始めになるだろうと考え、実際にそうしました。教会の中でとても良い信徒でいるなら、いつかはこんな自分でも天国行きの切符をもらえるかもしれないと考えたのです。すると実際には切符をもらうばかりか、とても沢山のことが起こりました。その教会の人たちは私のことを心から気にかけてくれ、イエスがご自分をどんな方であると言っておられるかを調べるよう私に提案して、そのための時間もくれました。そして時機を見計らってこう言ったのです。「神は私たち一人一人が自分の信仰について決断を下すことを望まれます。」
そこで私は、今こそ決断を下すべき時であると悟りました。聖書には、私が信仰によって信じるか信じないかを選ばなければならない二つの教えがありました。私は神が自分の理解を超えるほど大きな方で、自分は信仰について理解すべきことを決して全部は理解しないであろうことを前々から知っていました。だからこそそれが信仰と呼ばれているのです! 創造物は創造主のことを決して完全に理解することはありません。ですから私には二つの下すべき主要な決断がありました。最初のは第二テモテ3:16−17に書かれています。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」 つまり聖書は神が私たちに与えられた言葉であり、それを信じるつもりであれば、聖書を人生の取扱説明書であると見なして、それに従わなければならないということです。
私が信仰によって受け入れなければならない2番目の重要な教えは、ヨハネの福音書14章6節の、イエスがご自分について驚くべきことを告げられる箇所にあります。主はこう言われるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」 イエスは、ご自分が神へと通じる唯一の道であると言われたのであり、私はイエスがご自分について言われたこの言葉を受け入れるか拒むかを選ばなければなりません。問題は、自分がこれを真理として受け入れるかどうかです。私は自分の選択には永遠の結果が伴い、決断を下さないという決断すらも、キリストに従わないという決断には変わりないことを知っていました。こうした数々の事実を目の前に並べて考え抜いた末に、その年私は信じると決め、キリストに従うと決意したのでした。
1519年に、スペイン人征服者エルナン・コルテスは、過去に戻るための船を燃やすという決断を下しました。そして、息子が事故に遭う8年前に、私は神のいない過去の生活に戻るための船を燃やすという決断を下したのです。
その日の私の反応は、予想しうるものでした。何が起こっても神に従うという自分の下した決断に沿って行動していたにすぎないのです。
事故が起こった日に病院に到着した時、息子が生死の境をさまよっていると知らされました。そして緊急治療室に入ると、医師たちが息子にたった一つの治療しか施していなかったことがわかったのです。問題はかなり深刻でした。息子はまっすぐ頭から落ち、頭以外はまったくの無傷でしたが、落下によって頭蓋骨が砕け、それが脳の内部を圧迫していたのです。その部分が大きく腫れ上がって強い圧力がかかり、息子の命を脅かしていたので、医者たちが唯一したことといえば、頭蓋骨の頂点に穴を開け、そこにチューブを差し入れて圧力を和らげ、余分な水分を吸い出すことぐらいでした。その後の3週間というもの、息子は病院のベッドに横たわったまま意識不明の状態で、医師たちはどんなに問い詰めても彼が助かるかどうかをはっきり告げてくれませんでした。何が起こっているのかを知りたくて必死になった私は、神にこう問いかけ始めました。「なぜですか神よ? なぜ息子は窓から落ちたのですか? なぜあんなところから? なぜ彼が? なぜ私が? なぜ神よ、なぜ? 」
おそらくは皆さんも、自分のいる状況で同じように問いかけたことがあるのではないでしょうか。「なぜですか神よ?」と。私が答を求めて聖句を調べると、「なぜですか神よ」が今に始まった質問でもないことが判明しました。事実、イエスもヨハネ9章で同じ質問を投げかけられたのです。それは素晴らしい章で、ぜひ皆さんにも今週章全体を読むようお勧めしたいですが、今日のところは、最初の3節についてだけお話ししたいと思います。NIV訳の聖書にはこうあります。
1 イエスが歩いておられると、そこに目の不自由な人がいた。彼は生まれつき目が見えなかった。 2 そこでイエスの弟子たちが尋ねた。「先生、誰が罪を犯したのですか? この人の目が不自由なのは、彼が罪を犯したせいですか、それとも彼の両親が罪を犯したせいですか?」
彼らはその日「なぜ?」と尋ねており、今日においても一部の団体には、誰かが病気や災いで苦しんでいるなら、実際彼らは罪を犯したのであり、それは本人かおそらくはその家族が犯した罪のせいであると信じている人がいます。そしてイエスはそれに対して、非常に興味深い答を返されます。このように言われたのです。
3 「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
ユージーン・ピーターソンは、イエスのこの答を、自身の訳書「Message」において次のように訳しており、私はその訳がとても気に入っています。彼によると、弟子たちがなぜ悪いことが起こるのか尋ねた時に、イエスはこう答えられたのです。イエスは言われた。「あなたは誤った尋ね方をしている。誰の責任かを突き止めようとしているのだ。これにはその様な因果関係などない。むしろ神に何ができるかに目をとめなさい。」
そう、私たちはただの人間なので、神のように永遠という観点から物事を見ることをしません。今日という木にばかり気を取られて、永遠という森全体が見えないのです。私たちは今ここで起こらねばならない幾つかの出来事があるのだという事実を、いとも容易に見失ってしまうように思われます。私たちは堕落した世界に暮らしているため、そのような出来事には痛みが伴うものの、それでこそ永遠という時がより意味深いものになるのです。イエスはおそらく、この人生で私たちがどんな状況にいるとしても、物事を誰かや何かのせいにするのではなく、むしろ神に何ができるかに目を向けるべきだと言っておられたのでしょう。
船を燃やして、神に何ができるかに目を向けましょう!
大勢の人々が文字通り世界中で息子のために祈ってくれ、神は息子を救われました! 私は彼の命を救われたのは神であると確信していますが、この話には続きがあります。ここで映画が終わったわけではないのです。それは単なる旅の始まりにすぎませんでした。私たちが彼のいやしのために、すなわち彼がすっかり完全にいやされるために労し祈るという旅は、まだ始まったばかりだったのです。その旅は彼が考えたり話したり体を動かしたりといった、人間の基本的な機能をもう一度最初から学び直すという過程から始まりました。彼が生きていたことを心から感謝していますが、私たちが努力の限りを尽くし、神が彼をいやされるという大いなる信仰を抱いているにもかかわらず、あれから10年経った今でも彼の症状は深刻なままです。地上にいる間に完全にいやされるのかどうかも定かではありません。今彼は12才ですが、ひどいどもりがあり、右半身全体が頭の天辺からつま先まで脆弱な状態です。歩く時には杖を使わなければならず、長距離になると車いすが必要です。視覚にも重い障害があり、短期的な記憶力も深刻に阻害されています。彼は私の脚本にあったような健常児ではありません。イーライが事故に遭って以来、トリシャと私は息子を治すために、人に可能な限りのあらゆる手を尽くし、保険のきかない医療機器に何十万ドルも費やしました。事故の後の最初の3年間、トリシャとイーライは、文字通り起きている時間の80パーセントを、彼の治療に費やしました。
私たちには、彼が完全にいやされるという信仰がありました。それが起こると固く信じていたのです。私たちは、これが神の起されようとしているもう一つの奇跡であると知っていたので、ただ祈り続け、待ち続けました。私たちは待ちに待ち、いつの日かついに自分たちが聴衆の前に立って、こう言うであろうと確信していました。「主がされたことを見て下さい! 主は息子を完全にいやして下さいました!」と。けれども、そのようなことは起こりませんでした。私たちの人生という映画は常に、絶え間ないアドリブで一杯なのです。
イーライの治療を通して、私たちは大勢の医師や療法士に出会いましたが、その全員が、患者がいやされるかどうかは、患者が自分の状況を受け入れるかどうかにかかっていると言いました。つまり、私たちが自分の古い脚本という船を燃やして新たな脚本を受け入れ、その存在を拒んだり四六時中それを修正しようとするのをやめるなら、実際にもっと早くいやされるということです。3年間息子のためにできる限りのことをしてきましたが、まだ他にもできることやすべきことや、したいと思うことがあったのです。けれどもそれは私たちが彼の現状を受け入れ、障害と共に人生を歩むことを選ぶべき時でした。おわかりでしょうか、これは私たちが取り去ることのできなかった障害であり、神はそれを完全にはいやさないことを選ばれました。ですから、私たちは古い脚本という船を燃やし、自分たちの新しい脚本で神にどんなことができるかに目を向けなければならなかったのです。
ですから、この5年間、私たちは障害と共に歩む人生を受け入れてきました。だからといって、息子のために祈るのをやめたわけではありません。ここにおられる父親の皆さんも、きっと全員同じ気持ちでしょう。息子がいやされるためなら、自分の右手を失ってもいいくらいです。自分の命だって差し出すでしょう。けれどもイエスも言われたように、そこにはその様な因果関係はありません。ですから私はむしろ、神に何ができるかに目をとめることを選ばねばならないのです。とはいっても、私は完璧からはほど遠い人間です! 今でも時々自己憐憫に陥り、つい自分の古い脚本に戻ってそのような人生を夢見てしまうことがあります。そちらの方が自分の新しい脚本を通して神にできることよりも良さそうに思われるからです。私は生まれつき競争心が強いタイプで、勝つことを好みます。別に勝つことがすべてではありませんが、何と言いますか、実際はその通りなのです!
この部屋にいらっしゃる父親の皆さんの多くもきっとそうだったように、自分に息子が生まれるとわかった時、私は自分たちの脚本の中で、その子と共に人生を歩み、やがては一緒にキャッチボールを始めて、ついには本格的なスポーツに乗り出す、といった色々なことを夢見て、計画を立て始めたのです。ご存じのように、子どもというのは最初の2、3年から4才くらいまでは母親にべったりで、私は彼が4才になって一緒に色々なことをしたり、父親が普通教えるような色々なことを彼に教えるのが待ちきれませんでした。しかし先ほども話したように、事故によってその脚本が変わってしまったのです。今ではどんなスポーツであれ、イーライがそれをやっているところなど到底想像もできません。自分と同じように子を持つ父親である友人たちを乗せて車を運転していたある日のことを今でも覚えています。彼らは自分の子どもたちについての様々な夢や計画を語り、今彼らがスポーツをやっていて、どんなに順調にその目標に達しつつあるかといったことを話していました。その時にこう思ったのを覚えています。「ちょっと君たち、僕がここにいるのが見えないのか? 僕だって子どものために同じような夢や計画を持っていたのに、それが全部おじゃんになったんだぞ。だから自分の子どもがどんなによくやっているかや、どんなにすごいことを達成したかについて話すのはやめてくれ!」 そんな話は聞きたいとも思いませんでした。まだ自分の古い脚本の死を悼んでいたのです。
その後トリシャから、イーライが特別な必要を持つ子どもたちのためのリーグで野球をしてみないかと誘われたと聞いた時、私は非常に懐疑的で、ただならぬ抵抗を覚えました。負け犬にするために息子をフィールドに立たせるなんてごめんでした、そんなのは断然間違っています。何をしたらいいかわからずに色々な物事に手を出すけれど、結局どれもうまく行かないといった人たちが大勢いるので、息子に同じ思いをしてほしくなかったのです。そんなことは絶対に間違っていると思いました。しかし、やがて間違っていたのは自分だったとわかりました。ミラクル・リーグはちょっと変わった野球リーグで、子どもたちは決して負けるということがないのです。彼らは街にやって来て、まず最初に車いすや杖や歩行器を使う子どもたちが何の問題もなくプレーできるように、地面にゴムマットが敷かれた平坦なフィールドを設置します。これなら転んでも、地面が柔らかいので平気です。プレー中は、子どもたち一人一人にティーンか大人の相棒が付き添って一緒にプレーします。ルールはたった一つだけで、それはどの子どももボールを打ち、どの子どももベースに走り、どの子どもも得点するというものです。彼らがプレーするのを見たら、きっと皆さんはそれを奇跡と呼ぶことでしょう。その子どもたちを見た時、私は自分にあると思っていた問題が、実際にはないに等しいのだということに気づきました。それらの子どもたちを見ると、自分たちの身体的あるいは感情的な問題を克服して心から野球に打ち込んでいるのがわかります。しかも、彼らはリーグでプレーしているのであり、他の場所では決してその様なことはできなかったでしょう。ミラクル・リーグは、古い脚本という船を燃やして神に何ができるかに目を向けることの最たる例の一つです。
何年か前に、ミラクル・リーグは地元のリッチモンド・マリオット・ホテルで、リッチモンド野球チーム主催のフォーマルな資金調達パーティーを催し、集まった450人の参加者全員が、一人につき100ドルの寄付を与えてくれました。私たちは今でも野球好きで、ただ他の町に住む野球選手たちを招待したのですが、そこにはメジャーリーグの栄誉殿堂入りをしたダリル・ストロベリーや、あの名ピッチャーのハビア−・ロペズも来ていました。イーライは全員の歌を導くよう求められたので、参加者を導いて皆の大好きな「Take Me Out To The Ballgame(私を野球に連れてって)」を歌いました。彼は歌い終わった後に、自分がミラクル・リーグで野球するのが大好きな理由を人々に告げました。その場の誰もが涙ぐみ、彼の言う一言一言に熱心に耳を傾けました。パーティーが終わる頃には、彼の助けもあって子どもたちの野球リーグのために多額の寄付が集まりました。そしてイーライはプロ選手たちに交じって人々からサインを求められていたのです!
ミラクル・リーグは、神が私の新しい脚本を通してされたことのほんの一例にすぎません。私たちは沢山の奇跡を目にしてきたので、今日皆さんにそれらを全部分け合う時間もないぐらいですが、とにかく沢山の奇跡が起こったのです。そして一つ確かに言えるのは、それらの奇跡は人生が私の古い脚本に沿って展開していたなら、決して起こらなかったということです。船を燃やして、神に何ができるかに目を向けましょう!
一緒に言って下さい、「船を燃やして神に何ができるかに目を向けよう。」 今があなたの人生でそうすべき時でしょうか? 全身全霊で神に仕えると決意する時が来ていますか? 今こそ神のいない過去に戻らぬよう、船を燃やすべき時ですか? 人生のどこかがあまりにも脚本からかけ離れてしまったせいで、あなたは途方に暮れ、それを誰かや何かのせいにしようとしているのでしょうか? おそらくは、今こそ何かのことで人や状況を責めるのをやめて、神に何ができるかに目を向けるべき時かもしれないというのに。
皆さんがそうできるよう、今ここで祈りたいと思います。
神よ、あなたはその御言葉で、ご自分がアルファでありオメガであり、始めであり終わりであると言われています。あなたは私たちに害悪ではなく繁栄を与え、希望や未来を与えようと計画されますが、私たちは時として、それを理解するのにとても苦労します。人生がまるで自分の望んだ脚本通りに行かないことがままあるのです。神よ、どうか今晩や今日、私たちに勇気を、すなわち疑いや非難で一杯の過去という船を燃やし、むしろあなたに何ができるかに目を向けるための勇気をお与え下さい。イエスの御名で祈ります。
妻のトリシャと息子のイーライをご紹介します。イーライは今から歌う歌のことで、特別に皆さんに分け合いたいことがあるそうです。
[イーライ]
僕は毎日神の力を待ち望みます。神は僕に理解できるよりもずっと大きな方です。神は2003年に起こった事故で僕の命を救われました。事実神は病院にいた時に僕を世話されると語られ、本当にそうされました! だからこそ今ここにいられるのです。今から歌うのはクリス・トムリンの歌で、「I Will Rise」といいます。僕がこの歌を好きなのは、僕たちが死んだ時どうなるかについて歌っているからです。僕たちは天国の神様と一緒になって、永遠の命をもらいます。でもすべてが順調に行くために、何も死ぬまで待つことはありません。僕たちには、愛し世話してくれる神様がいるからです。皆さんにもこの歌を気に入ってもらえるよう望みます。
私が知るに至った平安がある
心と体は衰えようと
魂を不動にする錨がある
私は言う「無事です」と
イエスは勝ちを収められ
墓はその勝利に呑まれた
勝利が勝ち取られた
主は死からよみがえられた
[コーラス]
主に名を呼ばれて私は起き上がる
もう悲しみも痛みもない
鷲の翼に乗って舞い上がり
神の御前にひざまずく
そして舞い上がる
私は舞い上がる
その日は刻々と近づいている
この暗闇に光が射す時が
そして影は消え去り
私の信仰が私の目となる
イエスは勝ちを収められ
墓はその勝利に呑まれた
勝利が勝ち取られた
主は死からよみがえられた
[コーラス]
主に名を呼ばれて私は起き上がる
もう悲しみも痛みもない
鷲の翼に乗って舞い上がり
神の御前にひざまずく
そして舞い上がる
私は舞い上がる
そこで私は大勢の天使たちの声を聞く
「小羊に誉れあれ」
すべての待ちわびる心がこう叫ぶ
「小羊に誉れあれ」
[コーラス]
主に名を呼ばれて私は起き上がる
もう悲しみも痛みもない
鷲の翼に乗って舞い上がり
神の御前にひざまずく
そして舞い上がる
私は舞い上がる
[マーク]
ジョンさんと演壇を共にしてお話を伺う栄誉にあずかるのはこれで3度目ですが、それでも聞くたびに深い感動を覚えます! イーライ、祝福だったよ、ありがとう! これはクリス・トムリンが書いた歌だって知ってるけど、君が歌ってくれるならいつだって聴きたいなあ! 今一度ティラー家に、愛と感謝の気持ちを込めて盛大な拍手を送りませんか?