霊的な忍耐力を身に着ける
Building Spiritual Endurance
July 10, 2017
マリア・フォンテーン
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「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」—へブル10:36; ルカ21:19
私たちは、霊的成長やクリスチャンとして進歩を遂げることの一環として、いかにして困難や遅延を耐え忍ぶかを学ぶ過程を必然的に経ていきます。人生の様々な時点において、自分たちが長期に渡る戦いを戦うことに、もっと慣れる必要があると感じることもあるでしょう。そしてその過程において、一日や一週間や、あるいは一か月そこらではなく、時として何か月も、何年間もしがみつくというのが、実際どういうことであるのかを学ぶのです。私たちはこのような経験を通して、神の御言葉にしっかりとしがみつき、「キリスト・イエスの良い兵卒として」苦しみを耐え忍ぶ[1] すべを身に着けます。
これまでは、忍耐や我慢強さといった、これらの深遠なレッスンを学ぶ必要がなかったかもしれないし、そういったことを学ぶべき状況に面すると、無理な要求のように思われるかもしれません。個人的な戦いや試練があっても、祈りが答えられて、戦いは長く続かず、すぐに勝利を得られた場合が多かったかもしれません。今まで、いとも簡単に人々の人生が変わり、魂が救われる様を目にしてきたし、数々のプロジェクトが成し遂げられ、迅速な祈りの答えやいやしもありました。
けれども、勝利どころか進歩の兆しもまるで見られない時期が延々と続くこともあるのだと覚悟しなければならない時が、人生のどこかで、私たち全員に訪れることでしょう。そんな時には、かなり打ちのめされてしまうかもしれません。自分の感情が一切頼りにならず、ただ神がまだ自分を愛し、気にかけて下さっているという御言葉の約束に、しがみつかなければならない時が来るでしょう。神はあなたに、ご自分のために進み続けてほしいと望んでおられます。あなたがどう感じており、どんなに長いことその気になれなかったとしても。結局のところ、たとえ自分のしていることは形ばかりのもので、神が御言葉でそう言われているからという理由で、義務的な気持ちからそうしているように感じていたとしても、とにかく進み続けることを学ばなければならないのかもしれません。
御言葉にはこうあります。「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。」[2] 「忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」[3] 「苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」[4] 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」[5]
神の言葉が、耐え忍ぶ人は祝福されているのだと教えていることを知っているなら、勇気が湧き、一見絶望的な状況においても、進み続けることができます。何一つうまくいかないように思われても、神がその良き約束の一つとして破られることはないと信じつつ、進み続けなければならない時があるでしょう。耐え忍ぶことを学んだ讃美歌作者たちの多くのように、主を待ち望み、それらの破られることのない約束を心と思いに抱いて、イエスの御腕の中で休むことを選ばなければならない時が。私たちは神の御言葉を信仰の拠り所とし、神の約束を信じ信頼し続けるなら、神が私たち一人一人のために用意されているご計画が、成就すると信じなければなりません。
信仰を、「そうだな、もしうまくいかないなら、別れてしまえばいいさ」といった、多くの現代人が結婚関係を見るのと同じ様な見方で、見ることはできません。神はその約束されたことを、また成就することができると、心の内で「確信」していなければならないのです。[6] 「わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」[7] という態度を取るべきです。自分自身を捧げ、主とそのような誓約を交わしたのであれば、状況がどんなに困難になろうと、神の恵みによって進み続け、主から与えられた召命が何であれ、主のために生き続けることでしょう。
私たちは、耐え忍ぶべき困難を思って尻込みし、震えあがり、顔を覆うべきでしょうか? いいえ! むしろそれをチャレンジとして受け止め、主が私たちのためになされるであろう素晴らしい御わざを思って、胸躍らせるべきです。
将来やその不確実性について、不安や恐れを抱いているなら、それを克服する秘訣とは、御言葉や主が与えられた素晴らしい約束によって、信仰を強めることです。たとえ現世では苦しみ、苦難を耐え忍ぶ時があっても、この人生かあるいは来世において、それらに打ち勝つことが自分の宿命であり、召命であると考えて、喜べばいいのです! z試練を通っている時に気づくべきことは、クリスチャンが現世で経験するすべてのことには、目的があるということです。
恐れることはありません! 多くの問題があっても、少なくとも私たちは、それらに良い理由があり、それらすべての背後に何らかの目的があると知っているのですから。私たちは、自分たちが霊の戦いを戦っており、自分たちの問題の大半がそこから生じていて、それらが最終的には教訓となり、自分を強めてくれることを、理解しています。ですから、こうした試練には、永遠に続く貴重な目的があると知っているなら、それらを耐え忍ぶことがはるかに容易になるのです。
私たちには神の御言葉があり、祈りがあり、主の約束があります。将来の展望があり、目的があり、御霊の力があります。そして私たちは、将来に関する神のご計画も、また地上での人生が終わったら、自分たちがどこへ行くかも知っています。私たちには、患難の時期を辛抱強く耐え抜くための理由があるのです。
私たちクリスチャンは、その理由を信じるだけではなく、のべ伝えなければなりません。たとえ自分たちが信じ、実践し、のべ伝えていることが、この世の大半が信じ、実践していることと相反していたとしても。私たちは時が良くても悪くても、福音をのべ伝えるよう召されています。たとえ神の真理が人々の不評を買ったとしても、信じていることのために立ち上がることは、私たちクリスチャンの召命です。しばらくのあいだ、罪のはかない歓楽にふけるよりも、今、神の民と共に苦しみを味わうほうが、どんなにいいでしょう。[8]
ですから、「キリストの力がわたしたちに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」ではありませんか。[9] 主は私たちに、十分な恵みを賜ると約束されたのですから!
初版は1992年6月。2017年7月に改訂・再版。
朗読:デブラ・リー。