目が見えないことについて一言
A Bit about Blindness
January 13, 2021
ミラ・ナタリヤ・A・ゴヴォルクハ
今朝目覚めると、まだ目も開けない先から、ひどいめまいを感じました。早朝の祈りは、普段よりずっと長くなりそうだわ・・私はがっかりしてそう考えました。健康のためと、めまいがなくなるよう祈り、次に子どもたちや母や姉の健康のために祈り、それからことの大小にかかわらず、あらゆる問題のために祈って、もう一度めまいと虚弱感のために祈りました。まだ治りません! 普段のようにさっと起き上がることはできないでしょう。
朝にひどいめまいを感じて目を覚ますのは、これでもう5日目です。何もかもがぐるぐるとめまぐるしく回転し、頭の中でドラムバンドが行進して、内部から耳に大音響を浴びせているかのようです。どんな僅かな動きにも、永遠の時間を要するように思われます。私はトイレに向かいます。壁にしっかりとつかまって、両足が床の上にまっすぐに安定して立っていることを感覚で確かめながら。数メートルの距離を進むのにも苦労するのです。
それから、やかんを火にかけようにも、なかなかマッチが擦れず、数分かかります。だんだん怒りがこみ上げてきました。まず自分自身に、それから状況に腹を立てます。顔を洗います。うっかり頭を軽く洗面台にぶつけてしまいます。もう我慢できない! 一日が始まって一時間も経たないのに、もうすっかり忍耐を切らしてしまいました。
どうしたっていうの? 私はいい子にしていたわ。本当よ! (「マイ・フェア・レディー」の歌が脳裏にこだましました。) 毎日忘れずに祈って、イエスと時間を過ごしていたというのに。それに、医者にも行きました。女医は薬を処方して、首と背中上部へのマッサージを行い、また特別な医療運動を行うために、医院でのグループセッションに参加するよう勧めてくれました。そうすれば心臓から頭に、そして脳や背中に血が滞りなく流れる助けになるからと。私は処方を受けたすぐ後に、それらのセッションに参加し始めたのです。
けれどもそれから数日経った今も、まだめまいが続いています。膝に力が入らず、すべてがぐるぐる回っています。目の焦点を合わせるのが難しいので、何かを読むこともできません。
お茶を入れようとして、お湯をこぼしてしまいます。その瞬間、ひどい自己憐憫に襲われます。自分が可哀想でならず、惨めな気持ちで、起こり得る最悪のシナリオを思い描きました。冷蔵庫が空っぽになったらどうしようとか、収入が足りなくなったら、などの思いから始まり、果ては救急車で病院に搬送されるかも、といった考えに至るまで。まだ50前だというのに!
自分の年について考えると、地球上には同じような問題を抱えている人たちが、何百万もいることを思い出しました。しかも、さらに悪いケースも数えきれないほどあるということを。そして中には、私よりも5歳、10歳、20歳も年上の人たちがいるけれど、その全員が必ずしも大変そうに振る舞い、絶え間なく大騒ぎしてぶつくさ言っているわけではないのです。私はもっとしっかりしなければなりません。自分が恥ずかしいです!
私は最近出会ったある理学療法士のことを思い出しました。彼は私のマッサージセッションの担当者で、以前も何度か見かけたことはありましたが、特に関心を払ったことは一度もありませんでした。彼は医者でよく見かけるような人で、きちんと散髪し、白衣を着て、低い声で話しました。ただ、ある時、おかしい目をしているなと思ったことはあります。
それから最後に会った時、私はマッサージを受ける手続きをするために、彼の診察室に入って、彼と話さなければなりませんでした。彼はカーテンの後ろから出てきて、私のすぐそばまでやって来ると、療法士の紹介状があるかと尋ねました。それから、それを読み上げるようにと言いました。私は驚きつつも、それを読み始めました。おそらく手にマッサージオイルが残っていて、紙を汚したくないのだろうと考えながら。
彼はわたしをカーテンの後ろに招き入れ、テーブルの前に座ると、奇妙な外見のノートと、きれいに並ぶ四角い穴が沢山開いた薄いアルミ板を取り出します。そして私のフルネームを尋ねると、それを「書き」始めるのです。鉛筆のようなものをその小さな四角い穴に通しながら。ああ、彼は全盲なんだ! 私は衝撃を受けます。こんなに近くで目の不自由な人を見たのは、人生で初めてのことだったのです。そしてもちろん、誰かが目の前で点字を書くのを見るのも初めてです。私は当惑しながら、その様子を慎重に見守ります。彼は私の姓を二度尋ねなければなりませんでした。その後もう少しデータを記入し、それから診療日誌を脇に置きました。
今や私は、マッサージテーブルの上にいます。彼は私の首をマッサージしながら、何気なく天気の話をし、休暇で2週間ほど休むと教えてくれます。目の不自由な人が休暇旅行に出かけられるなんて知りませんでした! 目の不自由な人たちのことを何一つ知らなかったのです。
他のタイプのマッサージについて質問すると、彼は別の建物にある自分のマッサージ診療室について、詳しく説明してくれました。(私たちは、なぜ彼らを障害者と呼ぶのだろう。) 彼は私がその存在すらも知らなかった、肩の近くにある筋肉を揉みほぐし、私の症状について的確に、しかし簡単な言葉を用いて、事細かに説明してくれました。(一体誰が、彼らを身体障害者と呼ぼうと決めたのだろう。) 自分自身も体の自由が利かなかった私は、この有能な人物に感服しました。彼は全盲で、他の人々から障害者と呼ばれているけれども、私の痛みを和らげて体が動くようにしてくれているのです。
数日前のこの短い一場面を思い出して、私ははっと我に返ります。自分の気弱な態度が恥ずかしくなります。自分を憐れんでいたことで、自責の念を感じているのです。「削除」ボタンや「やり直し」キーがあれば、どんなによかったことでしょう。
私の朝のシナリオを、こんな風に修正してみましょう。
今朝目覚めると、目も開けない先から、くらくらとめまいを感じます。ああ、今日は昨日ほどめまいがひどくありません! 神よ感謝します! 頭も首も傷みません。意識もあります。時間や天気をチェックできる携帯も持っています。今日は暖かく晴れた日になるとのこと。主をほめたたえよ!
健康のためと、めまいがなくなるよう祈り、次に子どもたちや母や姉の健康のために祈り、それからことの大小にかかわらず、あらゆる問題のために祈りました。神ご自身が祈りを聞いて答えて下さり、私に最大限の益をもたらすことに心を配って下さるとわかっているなんて、私は実に恵まれています。
すべてがぐるぐると回り、ドラムバンドが頭の中で行進しています。そうですね、ありがたいことに、まだ眼鏡なしでもかなりよく目が見えます。そして窓辺に美しい植物が置いてある、素敵な色をした私の小さなかわいいアパートの開いた窓から、近所の人たちの話し声が聞こえてきます。
私はトイレに向かいます。壁にしっかりとつかまり、両足が床の上に、まっすぐ安定して立っていることを確かめながら。待って! 素敵な音楽でもかけておきましょう。神に感謝することに、私にはタブレットとインターネットがありますから。今は自分が、ダンスしながらトイレに向かっていると思い込めばいいのです。これらすべてができるなんて、素晴らしいではありませんか?
やかんを火にかけて、盲目の医師との出会いについて思い返します。身体的な目が見えないことよりも、霊的な目が見えないことの方が、ずっと危険でがっかりさせられるものです。イエスよ、周りのあらゆる小さな物事の中に、あなたの臨在を見ることができますように。
大好きな熱い濃い目の紅茶を一杯と、一切れの美味しいチョコレートがあれば、申し分ない朝の始まりです。一匹の蜂が入って来て、珊瑚色をしたゼラニウムの花の上に弧を描いて飛び回ります。
愛する神よ、どうか私の心と思いと霊と体にある障害を癒して下さい! 「[どうか、神が]あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるかを知るように。」[1] ああ主よ、見ることができるように、私の目を開いて下さい。「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください。」[2]