ベツレヘムの物語
The Bethlehem Story
December 14, 2015
バージニア・ブラント・バーグ
オーディオ・ダウンロード(英語) (8.1MB)
今年もまたクリスマスシーズンがやってきました。素敵なクリスマスの飾りつけがすでに見られ、店のウィンドウはクリスマス商品でいっぱいです。中には、このシーズンの様々な情景を見せてくれる、動く展示物もあります。
このあいだ、そういった店の前に立って、考えていました。陽気なエルフたちが踊っている、動く人形です。そこに立って、どうして素晴らしいクリスマスを表すのにこんな情景を見せるんだろうと考えていました。神の御子キリストの誕生を祝うために、そんな情景を見せるなんて! どうして店長は素敵な馬小屋の場面の方を選ばないのでしょうか。そんなにも美しくて、人の心に訴えかけるものなのに。代わりにこんな馬鹿げたものを展示するなんて、どういったことなのでしょう。ふざけたエルフたちが踊りまわり、小さなブリキのラッパを吹きならしているなんて!
それから、ベツレヘムの情景を思い浮かべました。きっと、それは人間が偉大なる神をあらわす方法ではないのでしょう。人間はそのような方法で神をあらわすことにしようとか、キリスト教のような偉大な運動を始めようとは思わないのです。
そんなことを考えながらそこに立っていました。そして、ちっちゃな赤ちゃんや飼い葉桶、大工の作業台のことなんて、人間には考えつかないだろうと思いました。この世的な考えとはまったく逆なものです。そんなのは人のプライドを吹き飛ばしてしまいます。偉大なる神の強さと力を表す方法として人間が考えつくようなものではありません。神は御言葉でこう言っておられます。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」[1] 1コリント1:27も思い出しました。この神の御言葉はこう告げています。「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び・・・。」
たしかにこの神の御子の誕生にあたって、つまりこの素晴らしいベツレヘムの物語において、神は強い者をはずかしめられました。神は、ご自身のものごとのやり方が人の理屈や当然期待されるものとはかなり違うのだということを示しておられます。
神がご自身を表そうとされたとき、この小さくて弱々しい赤ちゃんの姿になり、人間の肉体をまとわれました。その輝ける真実を、神はご自身なりの方法で私たちに伝えてくださったのです。そこに立ちながら、これにはどんな教訓が私のためにあるのだろうと考えました。神は強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選ぶということでしょうか。そのとおりです。しかし、イザヤ27:5[英語欽定訳など]で神は「わたしの力を手にせよ」とおっしゃっています。また、イザヤ49:5にはこうあります。「わが神はわが力となられた。」
かつて私たちは、神が少数の者に勝利を与えられたのは、神なしでは何一つできないという教訓を学べるようにだということを忘れてしまいました。[2] 自分が十分に強ければ勝利できる、天の法則は馬鹿げて見える、と考えてしまうのです。これまでいったい幾度、神は少数者に勝利を与えることによって、私たちは弱い時にこそ強いという神の御言葉の真理を明らかにされたことでしょう! ある人が見事にも「神と一人で多数派だ」と言ったとおりです。
神と一人の小さな赤ん坊が人々の心を一変させ、世界地図を書き換えることができるのです。神は働かれるとき、巨人を滅ぼすのに小さな小石を使われます。そうやって、神がそこにおられるなら小さなもので十分なのだと示しておられるのです。ですから、賢いクリスチャンならこう言います。「私自身に力はありません。こういったことを一人ではできません。私には神の力と助けが必要です。神に味方となっていただかねばなりません。」 そうやって神に完全に頼っており、自分は完全に無力な存在であるので、主はあなたを助けに来られるわけです。主は天の援軍を連れてきて、天のリソースを用いてあなたを応援されます。そのようにして、この聖句が成就するのです。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」
日々の生活の忙しさの中で私たちが覚えていないといけないことは、神の臨在の元に生き、主イエスと日々交わりを持つことが、心と魂を変えていくものなのだということです。しかしどうしたことか、この世代の狂ったような忙しさにあって、瞑想は失われた技術になってしまいました。この狂ったような忙しさは、クリスマスシーズン、つまりショッピングシーズンのまっただ中に加速します。中には、クリスマスが終わるまで、人生を楽しむために立ち止まることをしない人もいます。そのときになってベッドに倒れこみ、ため息をついて「ああ、やっと終わってよかった」と言います。何とも気の毒なこと!
立ち止まってクリスマスを楽しみましょう。それが意味することを心から楽しむのです。その美しさを楽しみましょう。そんなにも多くのことをしようとするのをやめましょう。このシーズンには、とても多くの素晴らしい点があるし、たくさん美しいものを見ることもできます。人の期待に応えるためや、最新の流行を追ったりするために、そしてこれを包んだりあれを包んだり、最後にこれをしたりあれをしたり、たくさんの料理を作ったりするために、大切なものを見失ってしまうのは何とも残念なことです。
私たちは熱狂的に忙しくすることで、主ご自身を見失っています。詩篇16篇にはこう書いてあります。「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。」[3] 主はそばにおられます。私たちの右におられるのです。話のできる距離におられます。でも、主に気付かないほど忙しくしているなら、主に会うことはありません。クリスマスショッピングで狂ったように忙しくしているなら、主がそこにおられることに気づきもしないのです。
主の声を聞くこともありません。聖なる静寂の内に神を待つときにしか聞こえないのです。周りの多くの声の中から主の声を聞き分ける時間のあるときにです。主の声は静かな細い声なので、多くのとき、動き回っていては聞こえません。
古いことわざに「嵐の夜に露は降りない」というものがあります。キリストの臨在の甘美さも、熱狂的に忙しくしている落ち着きのない魂によって見いだされることはめったにありません。天の露と最上の祝福は、静まって主の臨在を待つ魂に降りてきます。
おそらく主は忙しいショッピングセンターの中に立って手を伸ばし、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とか、もう一つの素晴らしい聖句にある「穏やかにして信頼しているならば力を得る」という言葉を語っておられるのではないでしょうか。[4]
友よ、聞いてください。尊いイエスとの個人的な関係なしには、人生はいつも、あわただしい活動や熱狂状態が延々と続きます。イエスだけが、心に安らぎと休息と穏やかさをもたらすことができます。ただあなたが立ち止まって、主にそうしていただくなら。
愛する主よ、これからの毎日が
私の一部をあなたと分かち合う日々となりますように。
あなたの足元に座り
お言葉を聞けますように。
その場所でしばし脇に外れ
この世の思い煩いを後にし
必要な力を得て
嵐や闘いを追い払うことができますように。
静かで聖なる密会の場所で
あなたからいただくのです
私の必要とする祝福を。
ここで私は休み、また生きます。
—『密会の場所』(マーサ・グレンフェル)
神がこのクリスマスに、またいつまでも、あなたを祝福し、守り、御顔をあなたに輝かせてくださいますように。
ラジオ放送番組『瞑想のとき』より。一部変更。2015年12月、アンカーに掲載。朗読:デブラ・リー。
音楽:「Rhythm of Christmas」アルバムより、許可を得て使用。