信じれば見えてくる
Believe It to See It
January 4, 2023
マーティ
また1年が過ぎ行き、私が70歳を迎える時が近づいてきました。自分がそんなことを言うなんて、現実とは思えないほどです。何度も何度も浮き沈みを繰り返し、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら進む旅でしたが、今となっては、そんな豊かな思い出が、この人生への感謝の気持を呼び起こしてくれます。振り返ってみると、私は非常に祝福されてきたということが明らかです。
しかし、それは今だから言えることで、若い頃にはわからないものです。若い人にとって、人生の大半はこれからで、知恵や導きを与えるような経験は十分にありません。そのどちらも、私たちが生き抜き、成長するために不可欠なものなので、最初から十分にないことはハンデのように思えます。それでも、ないものはないし、私たちは時の流れと共に前進せざるをえないのです。
毎日どの道を選ぶべきか、どうすればわかるのでしょうか。おそらく大抵の人が、いつかはそういった疑問に悩むことでしょう。10代の頃、神のことをあまりよく知らなかった私にとって、自分の道や思いに沿って物事を進めることがもはやうまく行かなくなっていました。かなり努力はしたのですが、より高みへと導く道が見つからなかったのです。話が長くなるので、手短に言えば、私が人生の旅に疲れていた時、イエスが現れて、私と出会ってくださいました。
生まれて初めて聖書に興味を持ったわけですが、すぐに、なぜ自分の道(やり方)がうまく行かなかったのか、その理由がわかりました。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」(イザヤ55:8) この言葉は理にかなっていて、簡単に信じられました。
その後、この本は神の思いで満ちているのだとわかり、毎日が発見の連続となりました。私は知恵の源である聖書に目を向けるようになり、その導きを吸収し、適用し始めたのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」(ルカ8:50) 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5–6)
新約聖書を初めて学んでみて、信じることについての教えが至るところにあることを見出しました。はじめのうちは赤ちゃんのような歩みでしたが、それが少しの前進をもたらしたので、さらに歩みを続ける励みとなりました。そして次第に、私はしっかり歩けるようになったのです。あまり先は見えなくても、神の約束に頼ることを学んでいました。使徒パウロは、それを「見えるものによらないで、信仰によって歩く」と表現しています。(2コリント5:7)
コンピューターがゆっくりと再フォーマットされていくように、心配して思い悩むという私の古い習慣は、徐々に信頼に入れ替わっていきました。神が共にいて、私たちを気にかけ、私たちが信じる時にはいつでも行動に出てくださるという確信が深まっていったのです。神が私に求められたのは、ただ期待することだったこともあります。しかしほとんどの場合、神は私が果たすべき役割について導きを与えてくださったのであり、私がその呼びかけに従うことは不可欠でした。
その頃の私は20歳の独身で、家から数百キロ以上離れたことはありませんでした。しかし、聖書は信頼に足る価値あるものだと信じ、全面的に受け入れた時に、それがすべて変わり始めたのです。
私はフィリピンに移り住んだのですが、着いて数ヶ月で妻に出会い、それから2年も経たないうちに結婚しました。最初の子どもが生まれた時、妻は21歳間近で、私は23歳になったばかりです。私たちは一緒にレースを走り始め、25年以上にわたり、環太平洋地域の6つの異なる国で、主に仕えながら各地を移動してきました。
その間、私たちは10人の子どもに恵まれて、全員を10代になるまでホームスクーリングで教育し、滞在国での豊かな文化体験を楽しんできました。事情により、2003年には、私たち夫婦とまだ家にいる年少の子どもたちは、カナダに移りました。それからさらに20年が経っています。昨年、私たちは少人数で43回目の結婚記念日を祝ったところで、もうすぐ、残りの子どもたちが巣立っていきます。
困難に対処し続けることが、長年にわたって私たちの人生の一部でした。アジアにいた時は、ビザ、経済的支援、育児の知恵、強さと健康などの面で、困難に対処する必要がありました。そして、新しい移住者としてカナダに来た時は、多くの面で再出発となりましたが、それは決して簡単ではありませんでした。それでも、先程あげたやり方は失敗したことがありません。
こういったことを話しているのは、何人もの人が今そうであるように、私もかつて将来を心配していたからです。不確かな状況が至るところに見られ、かつて成功への道とされていたものがうまく行かなくなった今、人々は知恵と導きを得るために、信頼を置くべき人や物を必死に探しています。誰もあなたに代わって信仰を持つことはできませんが、私たちが神とその言葉を信じた時に何が起こったかというこの体験談が、神がご自身に信頼を置く人をいかに気にかけてくださるかという証拠となることを願っています。私たちはただ幸運だったんだと考える人もいるかも知れませんが、別に偶然そうなったわけではありません。
イエスはかつて、こう言われました。「見ないで信ずる者は、さいわいである。」(ヨハネ20:29) 何年もの間、私は少し誤解していて、それは見るか信じるか、どちらか一方だと思い込んでいました。ただ信じて、必ずしも見ることを期待すべきではないと。しかし、後になってから、主は順番を教えておられたのであり、まず「信じる」ならば、やがて私たちの人生にも主の御手を「見る」ようになるのだということに気づきました。
新しい年を迎えたばかりの今日、私が祈りたいのは、皆さんがこの信仰を自分自身で発見、または再発見することです。イエスは生きておられ、イエスが私たちの心と思いに語る言葉は、霊であり命です。プレッシャーや不確かな状況が生じ、あなたが霊も命も感じられなくなったとしても、イエスとその約束は変わることがありません。主の愛と希望と励ましの言葉は、人生のあらゆる困難において、私たちを支えることができます。若かった頃の私は、それが真実だと信じるための恵みを与えられ、年配男性となった今は、それが真実であることが見えるようになりました。恐れることはありません。ただ信じましょう。